2019年10月31日木曜日

里仁 第四 12

【口語訳12】

孔子先生がおっしゃった。自分の利益本位の行動は、恨まれやすい。



【解説】

打算は当然なれど、過ぎれば鼻につくもの。処世術として踏まえるべきは、自らの利益と周りの利益の調和を取る事だ。調和を逸すれば敵を作り、結局は碌な事にならない。目の前の利益だけを考えるのではなく、敵を作ってしまう事で将来に生じるコストもきちんと評価したほうが無難だ。実際、恨まれても釣りがくると言う話などまずお目にかかれ無い。恨まれれば将来仕返しされる可能性が生じ、それは恨んだ相手が納得するまで消えないのだから、不吉な事この上ない。とは言え、恨む人間が少なければ生活に支障はでないかも知れないが、自分の事ばかり考えるような人間が作るであろう敵が、果たして少なくて済むかという問題がある。なんせ日に日に敵を作ってしまう性格なのだから、多くの敵に囲まれるようになると考えたほうが自然と言うものだ。そして、多くの敵を囲まれるようになるとどうなるかと言えば、何をするにも邪魔が入るようになり、とても生きにくい状況に追い込まれる。自分の利益本位の生き方は、時間が経つごとに生きにくくなるのが道理なのだ。君子ならば、時間が経つごとに生きやすくなるような生き方をすべきだし、また、そうでなければ君子とは言えまいと考えたい処だ。

なお、一方で、生きにくくなったら逃げれば良いと言うのも現実的な考え方ではある。ただ、性格のほうを是正せずに逃げるだけでは、本質的な解決にはならない事が難点となる。



1、物をくれる人が最上の友人

君子を立派な官僚として考えると、物をくれる人が有難い友人と考えると現実の政治に即してる。賄賂は受け取るだけではダメ、配ってこそ活きるのだ。

2019年10月29日火曜日

里仁 第四 11

【口語訳11】

孔子先生がおっしゃった。君子は有徳を願い、小人は安楽を願う。君子は責任を取る覚悟をするが、小人は責任を逃れる事を願う。



【解説】

君子と単なる知識人の興味関心事の違いが出ている言葉だと思う。君子と知識人は似て非なるもので、人間としての根本にハッキリとした差がある。君子にとって大切な事は、一にも二にも有徳者らしい振る舞いである。そのため、例えば、自らの言行が仁者にふさわしいものであったかに重きがおかれる。一方、知識人の場合、徳の高い人間になるよりも良い暮らしがしたいという欲求から知識を身に着けているため、自然と安楽こそが大切になる。安楽を願う事が悪いわけではないが、君子と単なる知識人では格が違う。

こういった人間としての根本の違いは、責任をとらねばならない場合にも良く現れ、有徳者たらんとする君子にとっては言行一致が大切であるため、責任逃れは恥ずべき行為になる。言行不一致になるからだ。故に責任をとる覚悟をする。一方、安楽のために書物を読んだ知識人は、安楽こそが大切なのだから、安楽を得るために責任を回避しようとお目こぼしを願うのは自然な成り行きとなろう。



1、三十六計逃げるに如かず

君子を立派な官僚として考えて見よう。官僚と言えば、出世こそが生きがいと相場が決まっているが、出世は所詮は確率論の世界である事を知っておきたい。世間は実力があれば評価されるかと言えば、そう簡単でも無い。例えば、実力が裏目にでてしまうと、嫉妬されて不遇に追いやられるなどは良くある話だし、王関連で言えば、戦争での活躍が王の猜疑心を煽ってしまい命を失ったと言う話もある。実力は大切なれど、それは出世の確率があがるだろうと言う意味で、と冷静に抑えておきたい処だ。

今回、君子は有徳者たらんと欲し、その結果責任を取る覚悟をするという流れで説明したが、有徳者になるのは少しでも出世の確率をあげるため、責任を取る覚悟をするのは、今が逃げ時の可能性もあるからという捉え方をして見ると面白いかも知れない。処世術として役に立つ事もあろう。実際、責任をとったとしても、その者が人材として惜しいならば必ず再度声がかかるものだから、責任を取ったからと言ってチャンスが無くなるわけでは無い。逆に、生き残りをかけて責任逃れを画策した結果、潔くないとなり、より厳しい処罰になってしまったなんて事もある。こう考えて見ると、三十六計逃げるに如かずと言うのも道理かも知れない。