【口語訳10】
君子の天下における有り方は、好む、好まないでは無い。ただ道理に従う。
【解説】
君子は公平な性格ゆえに、物事を好む、好まないでは判断しない。道理に従うのは、当たり前の事を当たり前にするのが合理的で無理がないから。当たり前の事を当たり前にするのは当たり前なれど、人間は情の生き物ゆえに、これがなかなか難しい。分かっているけど出来ないという性が人間にはある。そこで今回の孔子の言葉になるのであろう。物事を好き嫌いで判断しやすい小人と比べ、君子は好き嫌いで物事を判断する事はない。当たり前の事を当たり前にできる人間なのだ、と。そして、当たり前の事を当たり前にできる事で、人は立派と評されるようになり、君子と呼ぶにふさわしくなる。当たり前の事は行うとなると難しいから、当たり前の事が常にできると、それはもはや普通ではないからだ。
1、君子は物事を好き嫌いでは判断しない
物事を好き嫌いで判断する事は、一見当然のように感じるし、えこひいきして何が悪いと言われれば、別に悪くない。だが、君子が物事を好き嫌いで判断しないなら、物事を好き嫌いで判断する事のメリットより、デメリットを重く見るのが君子という事になる。そこで、まずメリットを考えると、メリットは自分のやりたいように出来る事だろう。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、これで上手くいくなら越した事は無い。ではデメリットは何だと考えると、恐らくそれでは上手くいかないという事なのだろう。こう言ってしまっては話が終わってしまうが、実際、経験を積むうちに自分の好き嫌いでやって失敗する事にでくわすはず。また、そもそもの話、自分の好き嫌いは言えないような場面などしょっちゅうある。すると、道理を重んじるのが早い事に気づく。道理は無理が無いゆえに道理と言うのだから、道理に従えば周りの納得も得られやすく、邪魔が入りづらいからだ。こう考えて見ると、君子が道理に従うのも当然と言えば当然と言えよう。道理に従わねば、物事はうまく行かないのだから。道理に反するとは、言わば奇をてらうという事だ。奇をてらえば、周りの理解を得られない。結果として、反発を受けると言う話になる。
2、道理に従うのは存外難しい
道理に従うとは一体どういう事かと言うと、故・松下幸之助翁の言葉にあやかれば、雨が降ったら傘をさすと言うような話だ。雨が降ったら傘をさす。当たり前である。これくらいなら誰でもやっているが、では孝となったどうだろう?孝とは本来は先祖供養を指す言葉だから、先祖供養を考えると、きちんとお墓や仏壇を管理できているかと言うと、仏教離れが叫ばれるくらいだから疎かになっている人も多い気もする。こう書きながら筆者自身も自信はないが、孝が大切なのは誰でも知っている道理だが、実際にやるとなると色々理由をつけてはやらないのも人間だ。そして、孝を疎かにする者が多いからこそ、当たり前に孝をできる人間が立派に見えるのである。
なお、余談だが、孝は孔子が一等の徳目として考えているものだ。これは孔子が葬儀屋であった事を差し引いても、さもありなんと感じる。と言うのも、中国では人の死後は地下の世界で生き続けるという死生観があるため、孝はその地下で生き続けているはずの先祖の生活の面倒を見る事に他ならない。この話が本当かどうかは確かめようがないが、そういう死生観である以上、孝を疎かにする行為は先祖を見捨てる事を意味する。自分勝手な性格を如実に表す事になろう。自分の先祖の死後の面倒を見れない者に、他人には仁を以って接せれるかと言うと、推して知るべしと言わざる得ない。孝を以って人を判断するという孔子の基準は秀逸かも知れない。
3、嫌な仕事もある
君子を立派な官僚として考えると、参考にしたい言葉がある。故・山本五十六元帥の言葉を紹介する。彼曰く、「苦しいこともあるだろう。言いたいこともあるだろう。不満なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。泣きたいこともあるだろう。これらをじっとこらえてゆくのが、男の修行である」との事だ。名言であるが、この男と言う部分を君子と言い換えれば、君子が好き嫌いでは仕事はできず、無理がない道理に従うのも納得いく気がする。
なお、孔子は54歳の時に今でいう司法大臣の位に出世しているが、その時代に好む好まないより道理に従うと言ったと考えるなら、誠に法の番人らしい言葉にも見える。
【参考】
故・松下幸之助翁の雨が降ったら傘をさすの件が、孔子の言葉の助けになるだろう。名著である。
君子の天下における有り方は、好む、好まないでは無い。ただ道理に従う。
【解説】
君子は公平な性格ゆえに、物事を好む、好まないでは判断しない。道理に従うのは、当たり前の事を当たり前にするのが合理的で無理がないから。当たり前の事を当たり前にするのは当たり前なれど、人間は情の生き物ゆえに、これがなかなか難しい。分かっているけど出来ないという性が人間にはある。そこで今回の孔子の言葉になるのであろう。物事を好き嫌いで判断しやすい小人と比べ、君子は好き嫌いで物事を判断する事はない。当たり前の事を当たり前にできる人間なのだ、と。そして、当たり前の事を当たり前にできる事で、人は立派と評されるようになり、君子と呼ぶにふさわしくなる。当たり前の事は行うとなると難しいから、当たり前の事が常にできると、それはもはや普通ではないからだ。
1、君子は物事を好き嫌いでは判断しない
物事を好き嫌いで判断する事は、一見当然のように感じるし、えこひいきして何が悪いと言われれば、別に悪くない。だが、君子が物事を好き嫌いで判断しないなら、物事を好き嫌いで判断する事のメリットより、デメリットを重く見るのが君子という事になる。そこで、まずメリットを考えると、メリットは自分のやりたいように出来る事だろう。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、これで上手くいくなら越した事は無い。ではデメリットは何だと考えると、恐らくそれでは上手くいかないという事なのだろう。こう言ってしまっては話が終わってしまうが、実際、経験を積むうちに自分の好き嫌いでやって失敗する事にでくわすはず。また、そもそもの話、自分の好き嫌いは言えないような場面などしょっちゅうある。すると、道理を重んじるのが早い事に気づく。道理は無理が無いゆえに道理と言うのだから、道理に従えば周りの納得も得られやすく、邪魔が入りづらいからだ。こう考えて見ると、君子が道理に従うのも当然と言えば当然と言えよう。道理に従わねば、物事はうまく行かないのだから。道理に反するとは、言わば奇をてらうという事だ。奇をてらえば、周りの理解を得られない。結果として、反発を受けると言う話になる。
2、道理に従うのは存外難しい
道理に従うとは一体どういう事かと言うと、故・松下幸之助翁の言葉にあやかれば、雨が降ったら傘をさすと言うような話だ。雨が降ったら傘をさす。当たり前である。これくらいなら誰でもやっているが、では孝となったどうだろう?孝とは本来は先祖供養を指す言葉だから、先祖供養を考えると、きちんとお墓や仏壇を管理できているかと言うと、仏教離れが叫ばれるくらいだから疎かになっている人も多い気もする。こう書きながら筆者自身も自信はないが、孝が大切なのは誰でも知っている道理だが、実際にやるとなると色々理由をつけてはやらないのも人間だ。そして、孝を疎かにする者が多いからこそ、当たり前に孝をできる人間が立派に見えるのである。
なお、余談だが、孝は孔子が一等の徳目として考えているものだ。これは孔子が葬儀屋であった事を差し引いても、さもありなんと感じる。と言うのも、中国では人の死後は地下の世界で生き続けるという死生観があるため、孝はその地下で生き続けているはずの先祖の生活の面倒を見る事に他ならない。この話が本当かどうかは確かめようがないが、そういう死生観である以上、孝を疎かにする行為は先祖を見捨てる事を意味する。自分勝手な性格を如実に表す事になろう。自分の先祖の死後の面倒を見れない者に、他人には仁を以って接せれるかと言うと、推して知るべしと言わざる得ない。孝を以って人を判断するという孔子の基準は秀逸かも知れない。
3、嫌な仕事もある
君子を立派な官僚として考えると、参考にしたい言葉がある。故・山本五十六元帥の言葉を紹介する。彼曰く、「苦しいこともあるだろう。言いたいこともあるだろう。不満なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。泣きたいこともあるだろう。これらをじっとこらえてゆくのが、男の修行である」との事だ。名言であるが、この男と言う部分を君子と言い換えれば、君子が好き嫌いでは仕事はできず、無理がない道理に従うのも納得いく気がする。
なお、孔子は54歳の時に今でいう司法大臣の位に出世しているが、その時代に好む好まないより道理に従うと言ったと考えるなら、誠に法の番人らしい言葉にも見える。
【参考】
故・松下幸之助翁の雨が降ったら傘をさすの件が、孔子の言葉の助けになるだろう。名著である。