2019年9月18日水曜日

里仁 第四 10

【口語訳10】

君子の天下における有り方は、好む、好まないでは無い。ただ道理に従う。



【解説】

君子は公平な性格ゆえに、物事を好む、好まないでは判断しない。道理に従うのは、当たり前の事を当たり前にするのが合理的で無理がないから。当たり前の事を当たり前にするのは当たり前なれど、人間は情の生き物ゆえに、これがなかなか難しい。分かっているけど出来ないという性が人間にはある。そこで今回の孔子の言葉になるのであろう。物事を好き嫌いで判断しやすい小人と比べ、君子は好き嫌いで物事を判断する事はない。当たり前の事を当たり前にできる人間なのだ、と。そして、当たり前の事を当たり前にできる事で、人は立派と評されるようになり、君子と呼ぶにふさわしくなる。当たり前の事は行うとなると難しいから、当たり前の事が常にできると、それはもはや普通ではないからだ。



1、君子は物事を好き嫌いでは判断しない

物事を好き嫌いで判断する事は、一見当然のように感じるし、えこひいきして何が悪いと言われれば、別に悪くない。だが、君子が物事を好き嫌いで判断しないなら、物事を好き嫌いで判断する事のメリットより、デメリットを重く見るのが君子という事になる。そこで、まずメリットを考えると、メリットは自分のやりたいように出来る事だろう。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、これで上手くいくなら越した事は無い。ではデメリットは何だと考えると、恐らくそれでは上手くいかないという事なのだろう。こう言ってしまっては話が終わってしまうが、実際、経験を積むうちに自分の好き嫌いでやって失敗する事にでくわすはず。また、そもそもの話、自分の好き嫌いは言えないような場面などしょっちゅうある。すると、道理を重んじるのが早い事に気づく。道理は無理が無いゆえに道理と言うのだから、道理に従えば周りの納得も得られやすく、邪魔が入りづらいからだ。こう考えて見ると、君子が道理に従うのも当然と言えば当然と言えよう。道理に従わねば、物事はうまく行かないのだから。道理に反するとは、言わば奇をてらうという事だ。奇をてらえば、周りの理解を得られない。結果として、反発を受けると言う話になる。



2、道理に従うのは存外難しい

道理に従うとは一体どういう事かと言うと、故・松下幸之助翁の言葉にあやかれば、雨が降ったら傘をさすと言うような話だ。雨が降ったら傘をさす。当たり前である。これくらいなら誰でもやっているが、では孝となったどうだろう?孝とは本来は先祖供養を指す言葉だから、先祖供養を考えると、きちんとお墓や仏壇を管理できているかと言うと、仏教離れが叫ばれるくらいだから疎かになっている人も多い気もする。こう書きながら筆者自身も自信はないが、孝が大切なのは誰でも知っている道理だが、実際にやるとなると色々理由をつけてはやらないのも人間だ。そして、孝を疎かにする者が多いからこそ、当たり前に孝をできる人間が立派に見えるのである。

なお、余談だが、孝は孔子が一等の徳目として考えているものだ。これは孔子が葬儀屋であった事を差し引いても、さもありなんと感じる。と言うのも、中国では人の死後は地下の世界で生き続けるという死生観があるため、孝はその地下で生き続けているはずの先祖の生活の面倒を見る事に他ならない。この話が本当かどうかは確かめようがないが、そういう死生観である以上、孝を疎かにする行為は先祖を見捨てる事を意味する。自分勝手な性格を如実に表す事になろう。自分の先祖の死後の面倒を見れない者に、他人には仁を以って接せれるかと言うと、推して知るべしと言わざる得ない。孝を以って人を判断するという孔子の基準は秀逸かも知れない。



3、嫌な仕事もある

君子を立派な官僚として考えると、参考にしたい言葉がある。故・山本五十六元帥の言葉を紹介する。彼曰く、「苦しいこともあるだろう。言いたいこともあるだろう。不満なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。泣きたいこともあるだろう。これらをじっとこらえてゆくのが、男の修行である」との事だ。名言であるが、この男と言う部分を君子と言い換えれば、君子が好き嫌いでは仕事はできず、無理がない道理に従うのも納得いく気がする。















なお、孔子は54歳の時に今でいう司法大臣の位に出世しているが、その時代に好む好まないより道理に従うと言ったと考えるなら、誠に法の番人らしい言葉にも見える。





【参考】

故・松下幸之助翁の雨が降ったら傘をさすの件が、孔子の言葉の助けになるだろう。名著である。





2019年9月6日金曜日

里仁 第四 9

【口語訳9】

孔子先生がおっしゃった。道を志すと言いながら粗末な服装や食事を恥と気にするなら、まだ共に語りあう同志としては足らない。



【解説】

粗末な服装や食事を気にする者は同志としては足らない理由は、具体的に考えて見ると分かりやすい。例えば、金と引き換えに、同志を売れと迫られた状況を考えて欲しい。この時、仁の人ならば、金では同志は売れないと言って断るだろう。仁の人にとって最も大切なのは、自分が不仁な行為を犯さない事だから。だが、粗末な服装や食事を恥と感じている者に、同じ事が言えるかと言うと、私には自信が無い。何故なら、粗末な服装や食事を恥と気にする事は心の迷いの現れであり、心に迷いがある時点で、まだ仁の道を本当に志しているとは言えない。故に、孔子は語り合う同志としては足りないと言う評価を下すのだろう。

同志の条件を示唆した今回の孔子の言葉は、若ければ若いなりの赴きのある言葉になるが、特に孔子が政争に敗れ、魯を追われて漂浪する事になった50代の半ばからの境遇を考えると良いかも知れない。孔子の言葉に切実さを感じれる。この頃を孔子は耳順と評しているが、耳順う相手が仁の人でなければ、とても信頼が置けなかったはず。頼る相手が粗末な服装や食事を気にしているようでは、いつ裏切られるか分かったものでは無いのだから。こう考えて見れば、粗末な服装や食事を恥と気にするなら、まだ共に語りあう同志として足らないのは当然となる。



(以下、他の解釈)


1、学徒にあっては

学問修養をしている者にとっては、余計な事を考えている暇があるのかという激励の言葉になろう。学業に専念すべき時分に、服装や食事に気がいくようでは、中途半端に終わるのは目に見えている。これを現代で例えるなら、彼女のできた高校生の成績が落ちるようなもので、彼女とトップクラスの成績の両立は難しい。道を志すならば、まずは道のみに専念する。他の事には興味関心がないくらいでなければ、とても覚束ないもの。当然に語り合う同志としては足りない。




2、官僚として

官僚として考えると、粗末な服装や食事になるようでは、賄賂が集まっていない事を意味するから、純粋に能力的にどうかという問題もある。中国の場合、日本とは違い賄賂は悪い事と考えられていないため、特に求めなくても勝手に持ってくる。したがって、賄賂も集められない官僚は融通が利かない官僚と言うべきか、人間的に何か問題がある疑いもでて然るべきだ。賄賂のために道を志すのであれば君子とは言えず、小人という事になるが、君子なれば賄賂は集まって然るべき土壌が中国にはある。そもそも仁の人ならば助けたくなるのが人情だし、利にさとい人ほど、仁の人を盛り立てて後ろ盾になってもらいたいと考える。これをどう考えるかだが、語り合う同志としては足りないという見方も一興だろう。

また、孔子の50代のように、道を貫いた結果として粗末な服装や食事に甘んじる事になった場合ならば、本来は本望とも言うべき状況のはずだ。それを後になって粗末な服装や食事になってしまった事を恥るのでは、道に対する信念が足らないと言わざる得ない。これは人としての言行一致が見られないと言っても良く、当然、語り合うべき同志として足りなくなる。言行が一致しない人間と語り合っても仕方ない。




3、教訓として

君子たるは難く、小人たるは易しい。常日頃から心の置き方には注意しなさい。ふとした瞬間にそれが出てしまうから。