2016年5月6日金曜日

入れ墨の是非

入れ墨に関する話題が出るたびに賛否両論でる。海外では普通だとか、ヤクザのようで怖いとか色々だが、ともかく、日本では入れ墨はいけない事になっている。その理由を考えて見る。入れ墨は何故いけないのか?思うに、自分の体は両親から、ひいては祖先からの贈り物だからという理由が良いだろう。自分の体は自分だけのものでは無く、祖先が一生懸命繋いできたものである。その祖先の意思を汲まずに、自分の体をどうしようと勝手と言うのでは、恐らく日本では好まれない。

両親も貴方を育てるのに色々苦労したであろう。その両親の両親も色々苦労したはずだ。両親の両親にもさらに両親がと、そうやって祖先が命をつないできて今の自分がいる。それを入れ墨は自分の勝手だと言うのでは、賛同を得られるはずは無い。人は一人で生きているわけではない。お陰様で生きていますという気持ちが大切だ。入れ墨を入れてはいけない理由もここにあるように思う。




---- 以下、余談 ----

入れ墨を何故いれてはいけないかは、より実益的にはエスタブリッシュメント層がしていないからだ。エスタブリッシュメントが世界のルールを決めている。彼らがしていないのに、入れ墨を入れている人に都合の良いルールが作られるはずがない。わざわざ入れ墨を入れて、行動範囲を狭めるのに何のメリットがあるだろうか?

漁師やヤクザ等その事が生業に関係しているなら考える余地はあるが、単なるカッコいいという理由で入れ墨を入れるのは止めておいたほうが生きやすいだろう。一方で、入れ墨は自分が生きてきた証とする文化圏もある。例えば、親類が死んだことを忘れないために体に入れ墨をほる。入れ墨を入れない事だけが正義では無い事は知っておきたい処。




---- 追記 ----

あるがままを大事にする。


是があって非が生じ、非が是を生む。


足し算より、引き算。


シールという手はあるかも知れない。


時には覚悟の在処となり、時には親から子への引導となる。


何も無いという事が心を安らげる。


相手の嫌がることはしない。

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