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2024年3月23日土曜日

龍神祝詞 その2

 【祝詞】


高天原に坐し坐して 天と地に御働きを現し給う龍王は    

大宇宙根元の御祖の神(御使い)にして 一切を産み一切を育て

萬物を御支配あらせ給う王神なれば 一二三四五六七八九十の 

十種の御宝を己がすがたと変じ給いて 自在自由に天界地界人界を治め給う

龍王神なるを尊み敬いて 真の六根一筋に御仕え申す 

ことの由を受引き給いて 愚かなる心の数々を戒め給いて

一切衆生の罪穢の衣を脱ぎ去らしめ給いて 萬物の病災をも立所に祓い清め給い

萬世界も御祖のもとに治めせしめ給えと 祈願奉ることの由をきこしめして 

六根の内に念じ申す 大願を成就なさしめ給えと 恐み恐み白す





【解説】

高天原 = 無心

竜王  = 無心の妙用



祝詞の奏上にあたっては、祝詞と一つになることに意義がある。祝詞と一つになっている状態、無心に祝詞を奏上している状態が高天原の具現化となる。



科学的には、竜を雷気の比喩と考えると良いかも知れない。人間の脳内で電気が流れているならば、この世界は電気の働きによって作られたと言っても過言ではない。



余談だが、聖書には神は自分に似せて人を創ったとある。その答えは人間が光だと考えるとスッキリするかも知れない。

人間 = 電気 and  電気 = 光  and  光 = 神 










2018年10月12日金曜日

龍神祝詞

【祝詞】

高天原に坐し坐して 天と地に御働きを現し給う龍王は    

大宇宙根元の御祖の神(御使い)にして 一切を産み一切を育て

萬物を御支配あらせ給う王神なれば 一二三四五六七八九十の 

十種の御宝を己がすがたと変じ給いて 自在自由に天界地界人界を治め給う

龍王神なるを尊み敬いて 真の六根一筋に御仕え申す 

ことの由を受引き給いて 愚かなる心の数々を戒め給いて

一切衆生の罪穢の衣を脱ぎ去らしめ給いて 萬物の病災をも立所に祓い清め給い

萬世界も御祖のもとに治めせしめ給えと 祈願奉ることの由をきこしめして 

六根の内に念じ申す 大願を成就なさしめ給えと 恐み恐み白す



【解説】

まず龍とは何かと言う話をすると、龍とは河の事である。中国の話になるが、中国は行商人が集まってできた国と言われる。色々な民族が、黄河を船で下り、ある地域に集まるようになった。そこでは言葉も分からぬ同士が、身振り手振りをしながら売買をして生活していたが、人が集まるようになれば、そこは自然と都市として発達する事になる。そうして商いが盛んになると、商いのルールがあったほうが面倒が無くて良いから、そのルールを取り仕切る者が出てきて、その者が都市で幅をきかすようになる。これが中華皇帝の走りとなる。皇帝は都市を商いの場所として開放する代わりに、場所代を取るようになるのだ。そして、商いが発達するほどに皇帝は栄えたのである。

この話を皇帝の視点で見ると、皇帝が河を龍として崇めた理由が良く分かる。皇帝からすれば、河こそが自分に金銀財宝を運んでくれるのだ。何て有難いものだろう。だから、河を神格化するようになり、河は龍になっていく。そして、黄河は度々反乱し、昔から中国人を困らせてきた。一度氾濫すれば手に負えないから、それが龍の逆鱗に触れたとなるし、氾濫が治まれば一切が流された土地に、再び都市が作られていく。そして、また河が皇帝に財宝を運んでくれるのである。この世界観と、日本神話の世界観を合わせたものが龍神祝詞ではないかと思っている。

そう考えて見ると、日本には川が大小数万あり、川は確かに昔から人々の暮らしを助けてきた。川から水を引いて田畑をつくったり、飲み水にしたり、川魚をたべたり、そうして川は人を繁栄させてきたが、時には氾濫して人を苦しめてもきた。しかし、氾濫が治まれば、人は川の恩恵に預かるのである。そして、日本の川は流れが速いため、汚物を浮かべても、すぐに何処ぞへ流れてしまう。だから、水に流すという言葉も生まれ、これが祓い清めのイメージとなる。

こうした川を龍に見立て、崇め、自らの愚かなる心をも水に流してもらう事を願う。一切衆生の罪汚れを水に流してもらおう。生きとし生けるものの病災いを水に流してもらおう。その見返りとして全身全霊をもって仕えると、言わば自分の身を犠牲にさしだして願うのが龍神祝詞の姿だと思う。自分は川を龍に見立て、川を崇めるようなイメージをもって奏上している。






【参考】

1、解説は人から見た川の恩恵で書いているが、祝詞はもっと広く、人以外の生きとし生けるもの全ての安寧を願っている。古神道は自然信仰であるため、人も自然の一部だとわきまえているのだろう。


2、十種の御宝(とくさのみたから)が何かは分らないが、その字の通り受け取れば、川が繁栄を運んでくるというイメージで良いだろう。中国なら行商人が舟に財宝を乗せて、黄河を下ってきたのだから、川は実際に多種多様な財宝を運んできたと言える。


3、高天原は富士山と言う説もあるようだが、ざっくり日本版天国でも、現在の日本でも良いだろう。自分は現在の日本を想定して奏上している。理由はイメージしやすからだ。


4、天と地に御働きの解釈を考えるに、地はイメージしやすい。竜が河川を象徴するなら、河川の回りは緑が生い茂るし、さまざなな生き物が生息し、人もその恩恵を受けている。ただ、天への身働きが何かと言われると、水が蒸発して雨になる事だろうか?ここは壮大に、龍神が雨のなかを移動している姿をイメージしても良いかも知れない。通り雨を龍神様が移動していると言ったりするので、あながち外れてないだろう。


5、真の六根一筋には全身全霊をもってという意味。六根は具体的には眼耳鼻舌身意と言い、その字通りに人間の活動全般を指す。人間は眼で見て、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌を動かして話し、身を動かし、意思をもって生活する生き物だと昔の人は考えたと言う話だ。


6、大宇宙根元の御祖の神(みおやのみつかい)は、天照大神として太陽をイメージして良いと思う。天照大神から委任され日本を統治してきた代々の天皇陛下を、川が龍神としてサポートしてきたと言われれば、古事記の伝承にふさわしい壮大さとなる。

2018年3月19日月曜日

国歌・君が代の解説




日本国の国歌である「君が代」を自分なりに解説してみたい。


1、君が代は

君が代とは、つまりは天皇陛下の治世を意味しよう。では、天皇陛下の治世とは何かと言えば、要は親子の情愛をもって世を治めるという事である。天皇陛下は、戦後は誤解されている向きがあるが、天皇位は今上陛下個人を意味してはいない。天皇位は、日本神話で天照大神から日本を平和で豊かな国にするよう仰せつかった邇邇芸命を表し、代々の天皇陛下は邇邇芸命となり、日本を平和で豊かな高天原にする事を日々願われている。

どんな親だって、我が子の行く末を案じているもの。天皇陛下の統治、君が代のイメージはまさにそれであり、貴方が我が子を慈しむように、陛下は国民を慈しむ。これが日本の国体であり、君が代となる。




2、千代に八千代に

一言で言えば、悠久の時を意味しよう。日本では数字の八が末が広がる様から、末広がりの縁起の良い数字と考えられてきた。そこで、特に沢山と言う意味を表したいとき、末広がりの願いも重ねて八を多用する。他にも八百万の神という表現があるだろう。沢山の意味を示したいなら、百万でも、五百万でも良さそうなものだが、あえて八百万を選んでいるのである。




3、さざれ石の巌となりて



画像がさざれ石の巌となる。さざれ石は細石と書き、その字が示す通り小さな石の事だ。そして、巌は大きな岩を意味するから、さざれ石の巌は、長い年月をかけて、さざれ石によって作りあげられた画像のような巌となる。

この部位は、さざれ石を国民一人一人の事と思えば良いだろう。苦しい事があろうが、泣きたい事があろうが、国民が一丸となって日本を平和で豊かな国を作り上げよう。そういう願いを、さざれ石が風雪に耐え、雷に撃たれながらも大きな巌を作り上げる様に例えている気がする。さざれ石の巌は、世間の厳しさ、様々な困難を乗り越える事の比喩と思われる。そして、巌は日本の堅固さの象徴でもあろう。




4、苔のむすまで

むすは、生すの事だ。つまり、苔が生えるまでの意となる。国民が様々な困難を経て作り上げた日本国が亡びぬよう、これからも守っていきたいと言う願いが込められている。岩に苔が生えるには時間がかかる。平和で豊かな国を、苔が生えるまで守り続けて行くと言う決意の意味であろう。

また、日本では古来から生す事を大変に重んじてきた。生すは豊かな生命力を象徴する言葉であり、命から新しいものが生み出される様を言う。「苔のむすまで」は、日本国から溢れ出る生命力を表現したのだろう。なお、生すは産すであり、日本神話の始祖となる2柱の神、高御産日神(たかぎむすび)と神産日神(かむむすび)の産である。2柱の神が与えてくださる豊かな生命力を讃えた言葉である。




5、まとめ

親が子を慈しむように、君臣一体となり、日本を平和で豊かな国にしよう。艱難辛苦を乗り越えて、日本を高天原にしよう。そして、未来永劫守り続けよう。君が代とは、こういう歌である。






---- 以下、余談 ----

1、おにぎりを、おむすびと言ったりするが、おむすびとはお産日という事だ。日は霊とも書き、命を意味する。おむすびとは、米一粒という小さな命が、お互いに合わさりあい、大きな命を産むという意味。こう聞くと、さざれ石の巌と表現が似ている気がしないか?この辺の感覚に日本らしさの何たるかがある気がする。


2、ヘブライ語訳による「君が代」








------  仏教の立場からの考察  ------

君が代とは、つまるところ自分の世のことであろう。千代に八千代には、本来の自分(無心)は永遠の存在であると歌っている。さざれ石の巌となりては、さまざまな経験をすれど無心は変わらないことに気付けば、それは巌のように人間の軸がしっかり定まると解釈する。苔のむすまでは、軸の存在が定まったならあとはより自然に、より自然にである。その意識すらないほうが好ましいとする。


2017年12月6日水曜日

天津祝詞 

天津祝詞は祝詞を奏上する時、まず初めに奏上する祝詞となる。神道の各宗派によって採用する天津祝詞は異なるようだが、一番一般的な祝詞を紹介する。個人的には大祓祝詞の簡略版と言うイメージを持っている。

天津祝詞 ⇒ 大祓祝詞 ⇒ 神棚拝詞




【天津祝詞】

高天原に神留坐す

神魯岐神魯美(かむろぎかむろみ)の命以て

皇御租神伊邪那岐命(すめみおやかむいざなぎのみこと) 

筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸(おど)の阿波岐原(あわぎはら)に

御禊(みそぎ)祓(はら)ひ給ふ時に生坐(なりませ)る祓戸(はらへど)の大神等


諸々の枉事(まがこと)罪穢(つみけがれ)を祓ひ賜え

清め賜えと申す事の由を

天津神(あまつかみ)国津神(くにつかみ)八百万の神等と共に

天の斑駒(ふちこま)の耳振り立てて聞食せと

恐み恐みも白す




【解説】

先ず訳文から。

「高天原におられます神魯岐(かむろぎ)、神魯美(かむろみ)よ。親神である伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が、筑紫日向の橘の小戸の阿波岐原で禊祓(みそぎはらえ)し時に生まれた祓戸を守る神達よ。

世に諸々の枉事(まがこと)や罪穢(つみけがれ)があふれております。真に恐れ多い事ながら、どうか祓い清めいただけないでしょうか?天上の神、地上の神、八百万の神達と共に、天の斑駒(ふちこま)の耳振り立てて、この願いをお聞き届けください。」

自分が奏上する時は、難しい事は考えていない。自分がイメージする神々は、太陽と身の回りの自然であるため、奏上するときは太陽と自然にお願いするイメージをもつ。世の中にあふれる悩みや苦しみを、天地自然にお願いして取り払う祝詞だと考えている。解釈は人によって変わるようなので、自分なりの解釈をすれば良いはずだ。






---- 以下、余談 ----

1、神魯岐(かむろぎ)、神魯美(かむろみ)は、それぞれ高御産巣日神(たかみむすびのかみ)と神産巣日神(かむむすびのかみ)の事のようだ。

2、「筑紫日向の橘の小戸の阿波岐原」の解釈は大きく2つあるようで、福岡県だとする説と宮崎県だとする説がある。ただ、大切な事は神々に罪穢れを払ってもらう事なので、場所が何処かという問題は何方でも良いと思う。

3、祓戸(はらへど)の大神は、黄泉の国からもどった伊邪那岐命が川で禊祓した時に生まれた神達を言う。その時に天照大神も含めた色々な神が生まれるのだが、その全ての神々を指すかというと違うようだ。具体的には瀬織津比賣(せおりつひめ)、速開都比賣(はやあきつひめ)、気吹戸主(いぶきどぬし)、速佐須良比賣(はやさすらひめ)と言われている。

4、天の斑駒(ふちこま)は高天原にいる斑模様の馬のようだ。その耳を振り立てるとは、注意して聞くという意味となる。馬は初めてのものや、不慣れなものに接する時、耳を前に向け振り立てる。その様子を言っているのだろう。なお、馬がリラックスするときは耳を横にむけ、威嚇する時は耳を後ろに伏せる。

2017年12月5日火曜日

神棚拝詞 

祝詞奏上と一言に言っても、正式には3つの祝詞ワンセットで奏上するそうだ。まず天津祝詞と大祓祝詞をまず奏上し、場を祓い清める。そして我が願い事として神棚拝詞を奏上する。家の神棚の前や、神社などで奏上しやすい短い祝詞なので、個人的にはお薦めの祝詞だ。

天津祝詞 ⇒ 大祓祝詞 ⇒ 神棚拝詞



【神棚拝詞】

此れの神床に坐す 掛けまくも畏き天照大神 

産土大神等 諸々の大神等の大前に 

恐み恐みも白さく


大神達の広き厚き御恵みを辱み奉り 

高き尊き神教のまにまに

直き正しき真心持ちて 誠の道に違ふことなく


負ひ持つ業に励ましめ給ひ 家門高く 身健に 

世の為人の為に尽くさしめ給へと

恐み恐みも白す




【解説】

先ずは訳文から。

「神棚におられる口の端にのせる事すら恐れ多い天照大神よ、土地の守り神よ、恐れ多くも申したい事があります。大神達の広く厚い御恵を有難く賜り、崇高な神教えの通り、素直で正しく偽りの無い心で、誠実に生きる所存です。つきましては恐れ多い事ながら、世のため人のために尽くせるよう、我が仕事、家門、健康を御守りください。」

この祝詞の発想は自分で思いつこうと思っても、なかなか思いつかない。神様にお願い事をするとして、普通は受験、出世、安産、恋愛、家内安全等、自分の事をお願いするだろう。勿論悪い事ではないが、この祝詞は世の為人の為に尽くさして欲しいと願うのだ。頭が下がる思いである。

理解で困りそうな部分を補足しておくと、産土大神は太陽の光によって生まれた自然(神々)の事である。天照大神の光によって土地に産まれた偉大な神という意味だ。全ては太陽の光のエネルギーを本にして生まれるのだから自然な話となろう。(当ブログの六根清浄の大祓の説明を参照)

また、神の恵の最も典型となるのは稲である。由庭稲穂(ゆにわのいなほ)の神勅と言い、高天原で稲作をしていた天照大神は、孫にあたる邇邇芸命(ににぎのみこと)へ、日本に降りたらこれを食べなさいと稲を渡した。これが日本の始まりである。邇邇芸命(ににぎのみこと)は代々の天皇陛下を指し、故に日本文化の象徴は米となる。天皇陛下の存在を戦後は誤解されている様子だが、陛下は日本文化そのものであり、日本を高天原にすることを願う祭祀である。教養としても覚えておきたい。






---- 以下、余談 ----

ちなみに、日本文化は祓いと言霊と言われるが、祓いと言霊の意味を知っているだろうか?軽く説明しておく。


その1、祓い

祓いは、自分を真っ白なキャンパスにするというイメージだ。良きも悪きも須く自分から追い祓う。こう言うと、良きも追い祓うのかと疑問をもつものだが、悪きだけでなく、良きも追い祓う事がポイントとなる。要は自分を澄んだ水のように清らかにするのである。心清らかならば、心の映し鏡である世界が汚れる事は無い。(伊勢神道)


その2、言霊

祓いが真っ白なキャンパスならば、言霊は言わば絵具である。良い言葉を口にする事で、言葉に宿る守護霊のご加護を得るのだ。明るい絵を描くか、暗い絵を描くかは貴方の話す言葉によって決まる。日本文化の基本が、祓いと言霊という意味が伝わるだろうか?

人間は明るい言葉だけでなく、時には愚痴などを吐いてしまう。愚痴や不平不満で彩りをそえた絵は暗い絵となろう。だからこそ、その一切を祓って、もう一度新しい絵を書くのである。今度は明るい絵になるように。絵師が何度も絵を書きなおしながら成長するように、人間も祓いと言霊の繰り返しによって成長していくのだ。

なお、言霊は人間は話した言葉通りの人生になるという考え方であり、言葉通りの人生になる事を守護霊のお陰と考える信仰である。人生で一つだけ注意するものがあるとしたら、それは口癖と言われるが、試しに愚痴を吐いている人を見て欲しい。愚痴が愚痴を呼ぶように、愚痴ばかり言っていないか?逆に前向きな言葉を話す人は、常に前向きな言葉を話さないだろうか?これをまず実際に確認してほしい。言われてみれば、そういう節があるくらいには思ってもらえるはずだ。

2017年12月4日月曜日

六根清浄の大祓 その3

4、六根清浄なるがゆえに、五臓の神君安寧なり。五臓の神君安寧なるがゆえに、天地の神と同根なり。天地の神と同根なるがゆえに、万物の霊と同体なり。万物の霊と同体なるがゆえに、成すところの願いとして成就せずということ無し。無上霊宝神道加持。

六根が清く浄らかであるから、五臓を司る神君も安寧となる。五臓を司る神君が安寧であるから、天地の神と同根となる。天地の神と同根であるから、万物の霊と同体となる。万物の霊と同体であるから、我が願いが成就しないという事も無いのだ。神道の教えは、この上のない霊宝である。




【解説】


その1、五臓の神君安寧

六根が清ければ心が澄み切り、ストレスがなくなり内蔵(五臓)のバランスが整う。御存知のようにストレスは万病の元で、典型的には胃潰瘍がストレスによる内蔵浸食かも知れない。これに限らずストレスを感じながら生きると病気になりやすい。免疫力がおち風邪をひきやすくなったり、癌など日本人の国民病も誘発する。何故ならストレスの原因は毒物だからである。

ストレスと言うのは、脳内における毒物への拒否反応だ。興奮するとアドレナリンが分泌されるという話は有名だが、アドレナリンこそ実は代表的な毒物となる。その毒たるや毒蛇の数倍の毒だというから驚いたものだ。人間は脳で毒物を自ら発生させるが、健康な細胞は毒物へ拒否反応を起こすため、その拒否反応がストレスの原因なのである。その毒物が発生しないのなら、五臓を統治している神君も安寧であるのは当然であろう。

余談だが、人間は脳で発生させた毒物を口から希釈して吐いている。よく悪口を言う事を毒を吐くと言うが、これは比喩でも何でもなく本当に毒を吐いている。南の島に現存する原住民などは、口から吐く毒をつかって木を切る事もあるのだ。彼らは通常は斧で木を切っているが、樹齢1000年という大木になると斧では切る事が難しい。そこで、口から吐く毒を上手く利用するのである。

彼らにはシャーマンみたいな特別な職があるらしく、切りたい木の回りをシャーマン達が取り囲み、一日中罵声を浴びせるのである。勿論一日でどうなるものでもないが、これを1か月、2か月と続けるとどんな屈強な木でもシナシナと弱まり倒れてしまうのだそうだ。今の日本ではそんな発想を思いつかないが、嘘のような本当の話だ。人間が進化の過程で、爬虫類だったころの名残と言われている。

さて、話を戻そう。五臓の神君が安寧である時、人は健やかで景色がより済んで見えるもの。綺麗なものはより鮮やかに見え、時には感動すら覚える。そして、普段人は気に留めないが、これは天照大神(太陽)の恩恵なのである。




その2、天地の神と同根

何故ゆえに人は太陽の光に親しみを感じ、安心を覚えるのだろうか?例えば、ダイヤモンドが好まれる理由も光の反射ゆえであろう。人間はどうも光が好きなのである。その理由を考えるに、もしかしたら光に対する同族意識なのかも知れない。

人に限らず、全ての生き物は太陽の光から生まれた。例えば、人の進化の過程を紐解くと、もともとは古代の海にいたヴァクテリアだと言われる。ヴァクテリアが光のエネルギーを得て、数十億年の月日をかけて人まで進化してきた。その中では爬虫類や両生類にとどまった者もいるし、分岐して野生動物になった者もいる。そして、ある者は植物へと進化した者もいるのである。

この進化の過程を光のエネルギーという一点だけで考えて見ると、なぜ天地の神と同根なのかの理由がはっきり分かってくる。それはどの種の動植物を見ても、最初は単なる細胞があっただけで、その細胞が光のエネルギーを吸収する所から始まるからだ。これは言わば、光というエネルギーがその細胞内で変換されて留まったに過ぎないとも言える。変換された後に人は光とは言わないだけで、元来それは光のエネルギーなのである。

人は野菜を食べるが、野菜は光を浴び光合成をしながら成長する。野菜は光を光合成によって自らのエネルギーに変えるが、光のエネルギーが光以外の形に変換されて野菜にとどまったにすぎない。人が野菜を食べるとは、光のエネルギーを野菜という形で摂取するという事でもあるのだ。勿論、動物も同じ理屈である。

このように人は、光のエネルギーが野菜や動物と様々な形に変換され留まった物を食べて生きている。人は直接的にも間接的にも光の恩恵を受けているのである。人は光のエネルギーを自らの力にする事で進化してきたし、今なお光のエネルギーを様々な形で摂取して生きている。だからこそ、人は光に親しみを感じ、安らぎを覚えるのでは無いだろうか?日本では古来より八百万の神がいると考えて来た理由も、光に注目して考えて見れば自然な成り行きとなるのである。光こそ天照大御神であり、故に天地の神と同根なのだ。




その3、万物の霊と同体

人は天地の神と同根であるから、万物の霊も同じく光の恩恵によって生じる。故に光のエネルギーと言う意味で同体となる。そして、我は万物の霊と同体、言い換えれば、かくも美しくエネルギーに満ちた天地自然と同体なのだ。叶わぬ願いがあるはずが無いだろうと祝詞は言っている。(解釈に国誉めの風習をエッセンスとして加えて見た。)





---- 仏教的追記 ----

無心なれば五臓も自然本来の働きをするのみで、そこに苦は無い。同根と言うは、思考が天地の神と自分を分けると言う意味であり、同体と言うは無心を言う。無心を意識がいくようになると、自然がより美しく感じられるようになっていく。その空気の透明感にも安らぎを得られるようになる。これをもって願いが叶ったと言う。まさに無上の霊宝であり、神の道である。それに実感が伴うと加えて持つと言う。









---- 以下、余談 ----

般若心経が分かると、六根清浄の大祓もより理解が進むのでは無いだろうか?有機物だけでなく、無機物も光のエネルギーによって生じると説明できるが、般若心経の色即是空の感覚を知らないと難しい話になってしまう。興味ある方は当ブログの般若心経の解説を参照して欲しい。色即是空ゆえに、無機物は光のエネルギーによって生じる。

https://bibouroku1212.blogspot.jp/2017/08/blog-post.html

2017年12月2日土曜日

六根清争の大祓 その2

3、諸々の法は、影と像のごとし。清く淨ければ、仮にも穢るること無し。説を取らば得べからず。皆花よりぞ木の実とは生る。わが身はすなわち六根清浄なり。

諸々の自然現象は、心を映す影、もしくは心を象る像のようなものである。心が清く、そして清らかに保っていくならば、仮にも汚れる事は無い。言葉で理解しようとしても分からないかも知れないが、この世の全ての現象は綺麗な花が咲く種のようなものなのだ。なればこそ我が六根を清浄し、心を清く浄らかに保つのである。


【解説】

この世は鏡のようなものであると言う。心が悲しみであふれていれば、景色は何処か物悲し気に見え、心晴れやかなれば雨でさえ陽気な彩を見せる。相手を嫌な奴と思えば大概は相手からも嫌がられるし、相手に好意的に接すれば相手からも好意的に接してもらえる。分かるだろうか?貴方の心象風景をそのまま投影するのが世界なのだ。まさに映し鏡の世界である。

考えてもみて欲しい。悲し気な景色というものが、この世に存在するだろうか?心がせつない時は、誰かの笑い声さえ自分のせつなさを増す声になる。だが、笑っている本人は楽しいはずだ。同じ空間にいても、人によっては楽しくもあり、人によってはせつなくもある。見える景色は人によって変わるのだ。嫌な奴も同じだ。自分は嫌な奴と思っていても、その相手にも家族がいて、恋人がいて、友人がいる。本当に嫌な奴なのだろうか?人によってその人間の評価は変わるのである。

この世界には良いとか、悪いという概念はない。言わば世界は中立であって、ただただ物理現象が起きているだけである。それが悲しげに見えるなら、悲しげと決めているのは自分であり、陽気に見えるなら陽気と決めているのは自分である。この事に気づく事が最大のポイントとなる。つまり、世界は中立なれど、良いか悪いかは自分の心が決めている。他人から見た世界と、自分から見た世界は違うのだ。

シェイクスピアの言うように、人生では誰しも一つの役を演じなければならないなら、自分の世界では自分が言わば劇の主役である。そして演出家、脚本家もかね、何もかも自分が決めている。人間は神の依り代、自分の心は神からの預かり物であるというイメージが伝わるだろうか?少なくとも貴方の世界では、貴方が全ての良し悪しの決定権を持つ神とも言うべき存在なのだ。

人生には悪い事は起きない。なぜなら自分で良いか悪いかを決める事ができるから。決める権利があるのだから、良いと決めれば良いだけだ。これを祝詞では、「皆花よりぞ木の実とは生る」と表現していて、全ての事は綺麗な花が咲く種のようなものだと言うのである。何故綺麗な花が咲く種になるのか?自分の世界では、自分が全て決めれるからである。綺麗な花が咲いたと解釈すれば良いだけなのだ。

世界は影のようなもので、自分が清らかならば世界は汚れる事はなく、皆綺麗な花がさく種のようなものと祝詞では言ってるが、まさにその通りであろう。なんせ自分でそう決めるだけなのだから。そして、なればこそ自分を清く保つよう精進するのである。最後に具体的な例をあげておく。

例えば、先生や上司に怒られたとしよう。ある人は怒られたと愚痴をこぼすが、ある人は目をかけてくれていると喜ぶ。怒るという事は、まだ見捨てていないとも言える。見捨てたら人間は無視をするのだから。要は考え方一つである。どちらの解釈にするかは自分で決めるのである。後者で解釈できる人にとっては、怒られた事は言わば種であり、清らかな心を養分として綺麗な花が咲くのだ。



---- 仏教的追記 ----

諸々の法は分別がつくりだす影のようなもの。無心なれば法すらない。この感覚は言葉にできるようなものではないが、花が実を結ぶ姿にありありと現れている。それが分かるなら、何故ゆえに清浄という字をあてがうかも分かるだろう。










---- 以下、余談 ----

この話は真実であって嘘ではない。だが、得心がいくかは人によっては違うだろう。そんな馬鹿な話と思う人もいるし、そんなうまく行くわけないと思う人もいて、素直に納得する人もいる。それ故に「説を取らば得べからず」と祝詞は言っている。本当の話だが、説明して納得してもらえるかは分からないのである。

2017年12月1日金曜日

六根清争の大祓

自分なりの解釈を書いていく。(ほかの人とは違うようだ。)

水色が原文、下に和訳を書く。



1、天照大神の宣 く。人はすなわち天が下の神物なり。すべからく静まることをつかさどる心は、すなわち神明との本の主たり。心神を傷ましむることなかれ。

天照大神がおっしゃられた。人は天が下における神の依り代である。当然のように静まる役目を担う心は、神明を下さる本の主である。心におわす神を傷つけてはならない。


【解説】

伊勢神道における「命は神からの預かりものである」という考え方を言っているのだろう。自分の和訳は当たっているか分からないが、命は神の一部という考え方を分霊と言い、分霊は心神を意味する。これが伊勢神道の基本であるため、そう思えば良いはずだ。

訳の困るのは「神明との本の主たり」という部分だが、天之御中主という全ての神々の根源となる神の存在を解釈にいれるかで訳が変わると思われる。入れるならば、天之御中主の一部を預かったという事になるから、和訳は「心は天照大神と人の本となった神様」という意味合いとなり、つまり天之御中主を指す事となろう。逆に天之御中主の存在を解釈にいれないとすれば、神明とは天照大神の別名であるから、心は天照大神からの預かりものという意味合いを持つ。

どちらで訳しても良いと思うが、理解するポイントは人間の心には神が宿っているという考え方になる。心神は神から一時的に預かったに過ぎないのだから傷つけてはならないし、預かり物は大切にしないといけないという話となる。

昨今、TVなどで子供の自殺を問題にしたりするが、何故自殺はいけないのか?心神という考え方に立てば、神からの預かり物である命(心神)を勝手に処分していいわけがないからと言えよう。命の大切さを教える教育では、自分の存在が自分の物では無いと気づかせる事が大切だ。自分の中には神が宿っており、存在それ自体が尊い。存在価値がないと思うなら、それは勘違いである。



------ 仏教的追記 -----

自己流だが禅を少し学んだので、その視点でも解説してみる。

神 = 無心 = 心

これが要点と思われる。










2、このゆえに、眼に諸々の不浄を見て、心に諸々の不浄を見ず。耳に諸々の不浄を聞きて、心に諸々の不浄を聞かず。鼻に諸々の不浄を嗅ぎて、心に諸々の不浄を嗅がず。口に諸々の不浄を言って、心に諸々の不浄を言わず。身に諸々の不浄を触りて、心に諸々の不浄を触らず。意に諸々の不浄を思うて、心に諸々の不浄を思わず。この時に清く潔きことあり。

このゆえに、眼に諸々の不浄を見ても、心ではその不浄を見てはいけない。耳に諸々の不浄を聞く事があっても、心ではその不浄を聞いてはいけない。口で諸々の不浄を言う事あっても、心ではその不浄を言ってはならない。身に諸々の不浄が触れても、心ではその不浄を触ってはいけない。頭で諸々の不浄を思う事があっても、心ではその不浄を思ってはいけない。こうして心は清らかとなり、不純なものがなくなる。


【解説】

まずは六根の説明をしよう。六根とは、人間の悩み苦しみが発生する六つの原因を言う。人間は何もなく悩んだりはしない。悩むにはそれなりの原因があるもの。例えば、嫌なものを見て、それがトラウマとなって苦しむとか。これが「目に諸々の不浄を見て」のイメージとなる。

他も同じだ。嫌な話を聞いて悩む、愚痴や悪口が災いして悩む、嫌な臭いを嗅いで苦しむ、汚いものに触って苦しむ、嫉妬や妬みを思い浮かべて苦しむ。人の悩み苦しみは目、耳、口、鼻、身、意を原因にして起きているだろう。そこで、これを植物が根から養分を吸収して育つのになぞらえて、人の悩み苦しみが育つ六つの根という意味で、六根と言うのである。

この祝詞は六根清争の大祓という名をもつが、その所以がこの部位に現れている。つまり、六根に不浄が生じても、言い換えれば、嫌な事があっても、それに囚われてはいけない。常に心清らかに保つ事に努めなさいと言うのである。嫌な事があったからと言って、心まで嫌な事に囚われてはいないか?嫌な事があったから、余計に元気が出てきたと言える人間でなくては。みんなの雰囲気が暗いからと言って、自分まで暗くなってはいないか?みんなが暗いなら、自分が明かりを灯してあげようと言える人間でなくては。

とは言え、人間は嫌な事があれば凹むし、周りが暗ければその雰囲気に流されるもの。その事を責められはしない。それが人間である。だからこそ、この祝詞を日々奏上することで日々意識しなおすのだ。嫌な事に囚われそうな心を、自ら意識して心から嫌な事を取り除く。しかし、また嫌な事は起きるだろう。だから、その都度嫌な事を心から取り除き、心を清らかに保っていくのが神道なのである。

しかし、そんな事が本当にできるのか?これが問題となろう。嫌な事に囚われてしまった心から、本当に嫌な事を取り除けるのか?それが何故出来るのかを説明するのが次の部位となる。



---- 仏教的追記 ----

無心なれば分別はなく不浄もなし。

無心を軸に生きれば、自然と祝詞通りになる。







---- 以下、余談 ----

神道は、日々反省して生きる道と言っても良いかも知れない。恨みをもつ心があれば、それを寝る前に取り除いてから寝る。愚痴や不平不満を言ってしまったら、それを寝る前に反省してから寝る。嫉妬してしまったら、それを寝る前に反省して明日に備える。今日一日を暗く過ごしてしまったら、明日は努めて笑顔を心がける。心清らかに保つとは、これを言うのだ。

恨み、愚痴、不平不満、嫉妬はいけない事は分かっている。だが、生理現象ゆえに自然発生してしまう。だから、その都度修正が求められ、簡単では無いが故に歩んだ軌跡が道となる。故に神道と言うのだ。

2017年11月29日水曜日

大祓祝詞(中臣祓詞) その4

6、此く宣らば 天つ神は天の磐門を押し披きて 天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて 聞こし食さむ 國つ神は高山の末 短山の末に上り坐して 高山の伊褒理 短山の伊褒理を掻き別けて聞こし食さむ 此く聞こし食してば 罪と言ふ罪は在らじと

大祓祝詞を奏上するならば、天上の神は天の岩戸と押し開き、空に厚い雲がかかろうとも掻き分けて願いを聞いてくれるだろう。地上の神は高い山の上や、低い山の上に登り、山にかかる霧を掻き分けて願いを聞いてくれるだろう。そうして神々が願いを聞いてくれるなら、罪という罪はなくなってしまうだろう。


【解説】

天の岩戸開きは天照大神が笑い声につられ岩の戸を開く話だが、ここでは見て見ぬふりをする心の比喩となる。人間は悪いと分かっていても、見て見ぬをふりをする生き物だ。「天の磐門(岩戸)を押し披きて」はそういう気持ちを振り払って、神々が聞き耳をたててくれるというニュアンスとなる。

天つ神、國つ神は、天上の神と地上の神を言うが、自分は何方も太陽を意識している。天の神が話を聞いてくれるは、雲の隙間から光が差し込む姿をイメージし、地上の神が大小様々な山の上から話を聞いてくれるとは、山に登る朝日をイメージする。朝にかかる霧が朝日によって消えていく様を、伊褒理(霧)を掻き分けると表現している気がする。そして、朝日の美しさの前に立てば、感動して悩みなど忘れてしまうだろう。だから、罪という罪はなくなってしまうのだ。





7、科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く 朝の御霧夕の御霧を 朝風 夕風の吹き払ふ事の如く 大津辺に居る大船を 舳解き放ち 艫解き放ちて 大海原に押し放つ事の如く 彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌以ちて 打ち掃ふ事の如く 遺る罪は在らじと

科度の風が空にある雲を吹き飛ばすように、朝夕の霧が風によって払われるように、大きな港にある大船の船首船尾を解き放ち、大海原に押し放つように、生い茂る草むらを鎌で刈り取るように、罪という罪はなくなってしまうだろう。


【解説】

自分は綺麗さっぱり人間の悩み苦しみが取り払われると言う話と解釈している。綺麗さっぱりを4つの例え話で表現していると思えば良い。

その1、科戸の風
科戸の風は罪汚れを祓う性質がある風らしいが、要は空をみて雲が流れる様を言っているのだろう。どんより雲に覆われる日もあれば、雲ひとつない晴天の日もある。この移り変わりは気にもとめないほど当たり前の日常だが、この日常を自分はイメージしている。昨日はあった雲が今日はなくなっている。風によって運ばれたのだろう。


その2、朝夕の霧
朝夕は霧がかかりやすが、時間がたつと霧はいつの間にか無くなっている。特に朝5時頃にかかる霧は昼にはまず間違いなくない。朝日と風が霧を取り払うからだ。この様を自分はイメージしている。


その3、大船
大津辺は大きな港を言い、舳は船首の事で、艫は船尾となる。だから、「大津辺に居る大船を 舳解き放ち 艫解き放ちて 大海原に押し放つ事の如く」の意味合いとしては、大きな船を大海原に出したという情景となる。

大きな船が人々の悩み苦しみだとすれば、それを港(人間)から切り離し、海へ流したととれる。自分は自衛隊の誇る護衛艦「かが」をイメージしている。


その4、彼方の繁木
繁木は腰ほどまで生い茂った草木を言うため、「彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌以ちて 打ち掃ふ事の如く」は草刈りをして綺麗にしたという意味になる。草を刈り終われば、清々しい気分になるだろう。自分は、そのまま草刈りをイメージしている。





8、祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末 短山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 速川の瀬に坐す瀬織津比賣と言ふ神 大海原に持ち出でなむ 此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百會に坐す速開都比賣と言ふ神 持ち加加呑みてむ 此く加加呑みてば 気吹戸に坐す気吹戸主と言ふ神 根底國に気吹き放ちてむ 此く気吹き放ちてば 根國 底國に坐す速佐須良比賣と言ふ神 持ち佐須良ひ失ひてむ 此く佐須良ひ失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと

祓い清めた後は高い山や低い山から滝に流すのだ。そして、滝の下を流れる速川にいる川の神様に海まで運んでもらおう。海についたなら今度は荒潮にいる海の神様に飲み込んでもらおう。そうして飲み込んでもらったなら、次は風の神様にお願いして黄泉の国まで吹き飛ばしてもらおう。黄泉の国についたなら、黄泉の神様にお願いして無くなるまでさすらってもらおう。そうすれば罪と言う罪はなくなってしまうさ。


【解説】

草刈りで言えば、草が罪汚れの例えとなる。草刈りをして綺麗になっても、刈り取った草は残るだろう。たき火をしたりして、燃やすはずだ。このたき火にあたる話を壮大な規模でしていると思えば良い。人間から罪汚れがきれいに取り払われたとしても、罪汚れは無くなりはしない。だから、罪汚れ自体を無くすために、草刈りのたき火にあたる行為をするのである。

まずは人の罪汚れを佐久那太理から流す。佐久那太理は滝の事だから、自分は奏上する時は大きな滝をイメージしている。そして、滝の下には川が流れ、川は海へつながる。だから、そう言う順番で祝詞が書かれている。滝から流した罪汚れは、瀬織津比賣(せおりつひめ)という川の神にお願いして海へ運んでもらおう。海へ着いたなら、次は速開都比賣(はやあきつひめ)という海の神にお願いして飲み込んでもらうのだ。それぞれ川や、海をイメージして奏上すればよいだろう。

なお、海の神に飲み込んでもらうという表現は、海の深淵な深さを言っているのでは無いだろうか?自分は海をみると畏怖を感じるため、恐らくこの畏怖をもって強大な力を表現しているのだと思う。

海の神様の次は、気吹戸主(いぶきどぬし)という風の神様である。風の神に罪汚れを黄泉の国まで吹き飛ばしてもらう。自分は普段ふいている風を感じながら奏上する。ここまで滝、川、海と日本の自然をリレーしてきた。ならば、普段吹いている風を想像するのが自然だと思う。

そして、最後は黄泉の国にいる速佐須良比賣(はやさすらひめ)だ。「根國 底國」は黄泉の国を言い、死人の世界となる。そこにいる神様にお願いして罪汚れを無くしてもらおうという訳だ。死人の世界のため、罪汚れにも死が訪れると祝詞は言いたいのだと思う。

ただ、自分が奏上する時は、死の国では無く四季をイメージしている。春に新緑だった葉は、夏は生命力に溢れ、秋には紅葉し、冬になれば枯れて落ちる。季節の移り変わりによって、自然は生まれて死ぬ。この姿を速佐須良比賣(はやさすらひめ)と言っていると思うのだ。だから、死ぬまでさすらってもらおうと祝詞はつづると。滝から流れされた罪汚れが、川を下り、海へ行き、風に運ばれ、四季の力によってなくなって行く。まさに日本という国を表現していよう。





9、祓へ給ひ清め給ふ事を 天つ神 國つ神 八百萬神等共に 聞こし食せと白す

このように祓い清めようと思っています。天上の神よ、地上の神よ、八百万の神達よ。どうかお聞き届けください。






---- 以下、余談 ----

奏上する回数が増えてくると、誇張されたイメージをもって奏上するのではなく、極ありふれた日常の情景をもって奏上したほうが良いと思うようになった。自分が想像をふくらませる必要はなく、日常の景色に祝詞の言葉が重なってくるのだ。

2017年11月28日火曜日

大祓祝詞(中臣祓詞) その3

あくまでも自分の解釈だが、自然の神々に人々を悩み苦しみを取り除くことをお願いすると説明してきた。科学が発達し夜も足元に困る事がなくなったせいか、現代では自然を恐れ敬う風潮がなくなったため、自然にお願いすると言うと変な話に見えるかも知れない。ただ、一概にそうとも言え無い節があるのだ。

本来、人間と自然は一体である。人間の吐くに二酸化炭素を木々は必要とし、木々の作る酸素がなくては人間は立ち行かない。木々に酸素を作らせるのは太陽のエネルギーであるから、昔の人が太陽、言い換えれば天照大神の恵みに感謝をしたのは、なんら不思議はないのである。太陽の光によって草が生え、草をたべる草食動物が生きる事ができる。草食動物が生きれるから、それを食べる肉食動物が生存を許され、その全ての過程をもって人間が生かされる。

無償の愛を知りたければ太陽を見ろと言われるが、まさにその通りだろう。お金を一切受け取ることなく、何よりも優れた恩恵をもたらし、文句ひとつ言わないのだから。太陽を人口で作るとなったら、天文学的数字の費用をかけても無理だ。どんなに苦しい状況であっても、すでに貴方は恵まれている。当たり前に感謝せよとは、これを言うのである。

人間が病気になる時は、血が酸化して黒ずんでいるという話を知っているだろうか?人間の不調は、血の色にでるのである。人間は血なのだ。そして、これを逆に見て考えて欲しい。血が黒ずむと病気になるのだから、黒ずんだ血を中和して元の赤色にもどせば調子も良くなるとも考えられないか?何せ原因を取り除いている。

では、どうしたら血を中和できるだろうか?結論を言うと、植物がとても有効な手段となる。病院に行かなくては病気は治らないと考えやすい現代に生きてると気づきづらいのだが、血の中和に植物は大きな役割を果たす。植物の近くにいるだけで、植物が出しているマイナスイオンによって血は中和されるものなのだ。だから、体の調子が悪いとか、鬱病などで気持ちがどんよりする時は、とりあえず森に行けと言われる。

特に樹齢数百年の巨木の近くが良く、巨木は長生きするだけあって生命力が強い。猫などを見ても分かるが、母猫が子猫を捨ててしまう事があろう。人間だったら、お前の子だろと言われるだろうが、猫の場合は母猫が特に冷たいのではない。この子は体が弱いから生き残れないと思ったら、平然とすてて次の子を作るのが自然界なのだ。生存力の弱い子を助けようにも、母猫には病院に連れて行く等の助ける手段がない。どうせ死ぬ子なら、次の子のために早い方が良いとDNAに刻まれているのだろう。

猫の例を見ても分かる通り、自然界は生命力のない生物が生き残れるように作られていない。長生きしてるならば、それだけ生命力が強い。そのエネルギーを体に取り込むのである。1時間から2時間くらい巨木の近くに座っていれば、それだけで血が中和され人間は上向く。酸素と二酸化炭素の例を見ても、人間と植物は互いに補う合う関係にあるが、体の健康状態をみても植物は人間を補ってくれている。我々人間が生きるために植物を大事にするように、植物も我々人間を補助しなければ生きづらい。だから、自然と共存関係ができあがったのでは無いだろうか?

自分は大祓祝詞を奏上する時、天地自然にお願いするようなイメージを持っていると説明してきたが、理由は人間が自然に生かされている側面を考えれば当然のように思うからだ。この事を肌で感じていたからこそ、1000年前の先祖は自然を八百万の神として讃えた気がする。当時の人に理由は分からなかっただろう。だが、科学が発達し色々解明された今だからこそ感じる合理性もあるのである。






---- 以下、余談 ----

樹齢数百年の巨木は、神社や寺にいけば珍しくない。

大祓祝詞(中臣祓詞) その2

4、安國と平けく知ろし食さむ國中に成り出でむ天の益人等が 過ち犯しけむ種種の罪事は 天つ罪 國つ罪 許許太久の罪出でむ

平和で豊かな国にしようと頑張っては見たものの、人間がありとあらゆる罪を犯すのであった。


【解説】

皇御孫命は親神に仰せつかった通り、日本を平和で豊かな国にしようと頑張ったのだが、人間がありとあらゆる罪を犯すので困り果ててしまったと言っている。天の益人とは人間の事で、「天つ罪 國つ罪 許許太久の罪」とは考え付く限りの罪事と言う意味となる。考えてもみて欲しい。今の日本でも、悪い事をする人間は後を絶たないだろう?日夜、警察官が頑張ってはいるが、犯罪はゼロにはならない。そういうイメージだ。

自分が奏上する時は、罪事を心の悩みや苦しみだとしている。日本は豊かな国なれど、人々の心から悩みや苦しみがなくなる気配がない。自然の神々よ、どうかこの悩み苦しみを取り去ってもらえないだろうか?というイメージで奏上している。今、自分を囲む自然にお願いするのだ。




5、此く出でば 天つ宮事以ちて 天つ金木を本打ち切り 末打ち断ちて 千座の置座に置き足らはして 天つ菅麻を 本刈り断ち 末刈り切りて 八針に取り辟きて 天つ祝詞の太祝詞を宣れ

そうして人間が罪を犯すならば、高天原で行われていた祭りをしようではないか。ひのきを上下揃えて切り柱にし、岩の岩盤に打ち立て神宮を建てるのだ。麻を上下揃えて切り、祭祀の服やしめ縄、お祓いの棒を作ろうぞ。そして、大祓祝詞を奏上するのである。


【解説】

この部位は伊勢神宮を言ってると思えばわかりやすい。天つ宮事は伊勢の祭りであり、金木は堅い木の事だが要はひのきだ。千倉の置座はスサノオの置座が筋だが、岩盤の地層だと考えて見て欲しい。伊勢神宮が建てられている場所は、下が岩盤の地層なんだそうだ。菅麻は麻の事で、神主の服は麻製だし、しめ縄も麻である。麻を加工する事を「八針に取り辟きて」と言っている。太祝詞とは、つまりこの大祓祝詞の事だ。

こう考えて見ると、人々の悩み苦しみを取り除くために、伊勢神宮にて祭祀による祭りが始まったととれる。らしいではないか。奏上するときは伊勢の祭りを想像しても良いだろうし、自分が奏上する姿をかぶせてイメージしても良いだろう。自分が大切だと思うのは、人々の悩み苦しみを自然の神々に取り去るようお願いする姿勢である。自分は太陽、樹木、岩、建物と自分を囲んでいる全てを神と見立てお願いしている。






大祓祝詞(中臣祓詞)






水色が本文、以下に自分の解釈を書く。


1、高天原に神留り坐す 皇親神漏岐 神漏美の命以て 八百萬神等を神集へに集へ賜ひ 神議りに議り賜ひて 我が皇御孫命は 豊葦原瑞穂國を 安國と平らけく知ろし食せと 事依さし奉りき

高天原におられます親神様、神漏岐、神漏美の命が八百万の神達を集めた。そして話し合いをなされた結果、我らの皇御孫命様が、豊葦原瑞穂國を平和で豊かな国にしてきなさいと仰せつかった。


【解釈】

自分は神漏岐、神漏美を太陽、八百万の神は自然とイメージしている。つまり、自分が太陽の光を浴び、目に見える景色に囲まれた姿が、ここで言う話し合いだと思っている。皇御孫命は天皇陛下の事だが、イメージとしては自分の事でも、日本人全体でも良いように思う。日本民族は天照大神の子孫であるから、勿論筆頭は天皇陛下であるが、自分や日本人全体を皇御孫命として祝詞を読んでも良いだろう。

豊葦原瑞穂國は葦が生い茂る豊かな国という意味で、日本国を言っている。日本国を平和で豊かにするのは日本人の責務であるのだから、皇御孫命を自分や日本人全体と解釈するとその姿が美しいように思うのだ。世のため人のために生きると、日本人ひとりひとりが日々この祝詞で確認する様はご先祖様が望んだ姿だと思う。




2、此く依さし奉りし國中に 荒振る神等をば 神問はしに問はし賜ひ 神掃ひに掃ひ賜ひて 語問ひし 磐根 樹根立 草の片葉をも語止めて

平和で豊かな国にしてきなさいと言われたものの、それを好ましく思わない神達が荒ぶっていたので、場合によっては説得し、場合によっては取り除くこととなった。その結果、それまで不平不満を口にしていた岩や樹木、草や葉に至るまで言葉を話すのを止めた。


【解説】

そのまま解釈すれば、皇御孫命が日本を平和で豊かにする事を仰せつかったのを不満に思った神々が反抗したので、説得したり、場合によっては討伐してねじ伏せたという話だろう。その結果、言葉を話していた岩や樹木、草や葉までもがピタリと話す事を止めたと。

ただ、自分は荒ぶる神は台風をイメージしている。そこを祝詞を奏上する事によって、自然の怒りを沈めたと。台風が過ぎ去り、自然に穏やかさが戻った状態が、岩や樹木が言葉を話す事を止めたと状態だと思うとしっくりくる。




3、天の磐座放ち 天の八重雲を 伊頭の千別きに千別きて 天降し依さし奉りき 此く依さし奉りし四方の國中と 大倭日高見國を安國と定め奉りて 下つ磐根に宮柱太敷き立て 高天原に千木高知りて 皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて 天の御蔭 日の御蔭と隠り坐して

空を覆っていたぶ厚い雲がちりじりになり、皇御孫命が天より降りてきた。その地、大倭日高見國を平和で豊かな国にすると決め、まずは岩盤を基礎とし太く立派な柱の御殿を建てられ、そこに住まわれた。御殿の周りにある木々も天にまで届くかのような壮大さであった。


【解説】

最初の「天の磐座放ち 天の八重雲を 伊頭の千別きに千別きて 天降し依さし奉りき」は、晴れた日に空を見て欲しい。雲もあれば、光の差し込む姿も見れるはず。調度この状態を言っていると自分はイメージしている。極ありふれた日常の光景だが、空をみれば日雲の合間から光が差し込んでいる姿は、情景を思い浮かべるにピッタリではないかと思う。

「此く依さし奉りし四方の國中と 大倭日高見國を安國と定め奉りて」と続くが、これは自分の住んでいる場所をイメージすれば良いかと思う。見上げれば太陽があり、自分の住んでいる場所を見守るように光が降り注ぐというイメージだ。

「下つ磐根に宮柱太敷き立て」は、例えば家を建てる時、どんな家でも基礎があるだろう。その基礎の上に柱を建てるはずだ。それを言ってるだけだ。また、日本には昔から国誉めといって、天皇陛下が国を褒める風習があるが、それが調度「高天原に千木高知りて」だろう。木々に対して、何と壮大なんだと褒めてるわけだ。自分は身の回りにある木を褒めるような意識を持っている。

どんな神社であれ、どんな家であれ、岩盤の上に柱を建てるのに変わりはないし、周りに木々があるのも普通の事だ。それを御殿と例えて、日差しの日陰としましたと言ってると自分は想像している。自分の回りにあるものを賛美するという意識で、この部位を読むとしっくりくる。