【7則】趙州洗鉢
禅を学び始めてしばらくたったが、最近は生と死の区別がなくなってきた。死を特別なことだと考えなくなったのだ。すると、ある心境の変化を自覚するようになった。末期の一句という言葉があるだろう。この言葉は禅僧が死に際に残す禅境を示す言葉といったほどの意味らしく、以前この言葉を考えたときはわざわざグーグル検索をしてどんな言葉があるのか調べようとしたし、実際に自分ならどういう言葉を残すかなどと考えてみたりした。禅の勉強をしているのだから自分も末期の一句を得なければと思っていたのだ。が、最近は末期の一句は日常の言葉そのものではないかと思うようになった。というのも、死が特別なことと思えなくなってみれば、死に際して特に言葉を残す必要もなく、末期の一句という発想がなくなってしまった。強いて末期の一句という言葉を使うなら、日常の言葉がそのまま末期の一句なのだと思えてくるのだ。
さて、7則を考えてみよう。和尚はご飯をたべたら鉢を洗いなさいと言ったらしいが、それもまた良し、そんな気がしてくる。何をしても結局することは変わらないのだから。
【禅問答の基本的質問の解答】
自分なりの解答を記しておく。
如何是仏 = 零
如何祖師西来意 = 同
如何仏法的々の大意 = 常
父母未生以前の一句 = おはよう (raise and shine)
【8則】奚仲造車
一休さんが師より印可をいただいた時の詩として伝わっている、「有漏路より無漏路へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」にちなんで自分も詩を吟じてみる。
「無漏路より 有漏路へ至る 我が旅よ 雨ふるも良し 風吹くも良し」
p.s.
この詩が奚仲が造りし車だよ。