2022年9月30日金曜日

無門関 覚書 7則、禅の基本問答解答

 【7則】趙州洗鉢

禅を学び始めてしばらくたったが、最近は生と死の区別がなくなってきた。死を特別なことだと考えなくなったのだ。すると、ある心境の変化を自覚するようになった。末期の一句という言葉があるだろう。この言葉は禅僧が死に際に残す禅境を示す言葉といったほどの意味らしく、以前この言葉を考えたときはわざわざグーグル検索をしてどんな言葉があるのか調べようとしたし、実際に自分ならどういう言葉を残すかなどと考えてみたりした。禅の勉強をしているのだから自分も末期の一句を得なければと思っていたのだ。が、最近は末期の一句は日常の言葉そのものではないかと思うようになった。というのも、死が特別なことと思えなくなってみれば、死に際して特に言葉を残す必要もなく、末期の一句という発想がなくなってしまった。強いて末期の一句という言葉を使うなら、日常の言葉がそのまま末期の一句なのだと思えてくるのだ。

さて、7則を考えてみよう。和尚はご飯をたべたら鉢を洗いなさいと言ったらしいが、それもまた良し、そんな気がしてくる。何をしても結局することは変わらないのだから。






【禅問答の基本的質問の解答】

自分なりの解答を記しておく。


如何是仏       =  零 

如何祖師西来意    =  同 

如何仏法的々の大意  =  常

父母未生以前の一句  =  おはよう (raise and shine)




【8則】奚仲造車

一休さんが師より印可をいただいた時の詩として伝わっている、「有漏路より無漏路へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」にちなんで自分も詩を吟じてみる。




「無漏路より 有漏路へ至る 我が旅よ 雨ふるも良し 風吹くも良し」








p.s.

この詩が奚仲が造りし車だよ。



2022年9月4日日曜日

無門関 覚書 5則、6則

【5則】香厳上樹

禅とは一体何でしょうか?という質問に何て答えよう。この質問の面白いところは例え分かったとしても何も変わるところがないという点ではないか。そもそもこの質問をする意味が分からない。無心の存在に気づくとそんな気分になる。無心よりいでし我は、また時が立てば無心に帰るのみ。そして、帰った後はまた我となって現れる。その繰り返しを人生と仮に称しているのであり、それ以上でもそれ以下でもない。

ならば、公案に何て答えようか。香厳和尚が言われるように、確かに答えられないようでは聞いた人に申し訳ないかも知れない。しかし、答えても答えなくても同じである。答えるならば答えているうちに無心になるし、答えないならば答えないままに無心になるから。答える答えないという部分に注目するのではなく、無心の部分に注目するのがコツである。どうせ同じならば、趙州和尚にあやかってお茶でも飲みなさいときりだすべきか。臨済和尚のように一喝して迷いを断ち切るべきか。いや、真似はいけないというならば、自由に生きたら良いってことだよと言うべきか。ただ、今回の公案では木の上でぶら下がってる状態で答えなくてはいけないらしい。一見大変な難題に思えるし、無門和尚が言うように香厳和尚の悪毒は始末に負えぬという感じなのだが、「しかし」である。考えてみれば木にぶら下がっていても、ぶら下がっていなくても同じであろう。ぶら下がったまま無心になるか、ぶら下がらずに無心になるかの違いであるし。そう考えてみると木の存在はあってもなくても同じだなと思えてきて、気づけば木はなくなっていた。残ったのは無心だけか・・・。










【6則】世尊拈花

お釈迦様に会いに行ったら、突然花がでてきた。あまりに意外だったので、思わず笑ってしまったという自分がいる。とはいえ、迦葉尊者が笑ったその本当のところは分からないが、花は仏であろうし、お釈迦様は現物で仏を示したという理解でいいのかな?とは言え、花が仏だと感じようが、感じまいがすることは変わらないと思う自分もいる。そう考えてみると、難しいことは考えずに花を楽しみなさいという計らいかも知れない。色々考えてみるが、結局無心になるだけなのよね。考えるから悩みが生まれるのよね。



---- 追記----

サイクリング中に自然と微笑になる。心になにも掛かる事がなければ、自然と微笑になる。こういう体験をすると、これが拈華微笑の心ではないか?そういう気分になる。力が抜けてれば、勝手に笑顔になっているんだよね。