2024年7月12日金曜日

無門関 31則 覚書

 【趙州勘婆】

1、経験値:1年~3年の場合

人間は思考状態と無心を交互に繰り返しているだけなので、驀直去を無心になると解釈していた。これは実践的には何事も丁寧にやれば良いという事である。別に丁寧にやらなくても無心になることは変わらないはずだが、丁寧にやったほうが無心を意識しやすいだろうと考えていた。

驀直去 = 至無心 



2、経験値:4年~5年の場合

つい先日、サイクリングロードを自転車で走っていると、自分のお腹のあたりに顔があるような大型犬が、目を血走らせながら近づいてきた事がある。非常に危ないと感じた。目が普通の犬とは全く異なり、攻撃性を強く帯びていたから。噛まれるかもしれないという場面であったが、その時何故か自分は全身の力を抜いていた。自転車を加速するわけでもなく、おびえるでもなく、あとの成り行きをただ犬に委ねたのである。すると不思議な事が起きた。先ほどまで攻撃する気満々に見えた犬が、その攻撃性をなくし道の端っこによったのだ。事なきを得たのである。思い返してみると、この時は自分の身が薄くなり空気と自分の境界がはっきりしなくなったように思う。この体験を他に活かせないものかと最近は考えている。

驀直去 = 無為自然



3、台山の路 

「五台山への路はどこでしょうか」と言う質問は、見ようによっては僧が婆子を試したとも受け取れる。それに答えて、「真っ直ぐ行きなされ」などと気の利いた事を言えるのだから、この婆子も只者ではない。自分ならただ上を見上げるかも知れない。



4、三五歩

僧わずかに歩くこと三五歩は、「真っ直ぐ行きなされ」という婆子に対しての僧の心境告白となる。以前は三五歩くらい歩くと無心の用がでやすいとみていたが、今はことさらな仕業のないことに着目すべきと思う。これに対し、「なかなかの坊さんに見えたが、やはり同じように行く」と婆子が返した。以前は無心ゆえに当然と考えたが、今は再度僧を試す拶所としたほうが面白いと思う。



5、自分ならどうするか?

(その1)

僧 「五台山への路はどこでしょうか?」

自分、ただ斜め上を見つめる。

僧が三五歩歩く。

自分、ただ成り行きに任せる。



(その2)

自分 「五台山への路はどこでしょうか?」

婆子 「真っ直ぐ行きなされ。」

自分、ただ斜め上を見つめる。

婆子 「同じようにいきなさる。」

自分、目をパチクリさせ、そのまま来た道を帰る。



6、趙州和尚

世の中はなるようになるようにできているし、なるようになるのが無理がなくて良い。その意味で趙州和尚の行為の理由を考えるのは野暮かも知れない。ただ上を見上げれば、それで良い。とは言ったものの、その言葉は自分のものか、それとも受け売りかという視点は大切で、常に自問したいところである。



7、感想

今も昔も無心の心地を楽しんでいる事に違いはないが、以前は積極的に至るという部分に目がいき、今は脱力から無心に入ることに関心がある。

泥中有刺 = 分別





2024年7月2日火曜日

無門関 30則 覚書

 【即心即仏】

1、経験値:1年~3年の場合

何をするかは重要ではない。何をしても同じであるから。そういう感覚を得ると、選り好みが強く抑制され、自然と感謝できるようにもなる。目の前にある景色がこの上ない宝のように思え、雑草すらが美しく見える。これが無心に気づいてから徐々に形成された実感である。この感覚は体感的に悪いものでは無いため、以前はこの感覚で即心即仏を解釈していた。無心ゆえに言葉にすれば口をすすぎ、即身即仏と聞いた途端に逃げ出すのかな、と。



2、経験値:4年~5年の場合

以前の感覚がなくなったわけではないが、新たに加わった感覚がある。それは、すべて無駄だったという感覚だ。世界が静止画に見えて以来、何故かそういう視点を得て、言葉がでなくなった。そして、仏と口にしただけで三日も口を洗い清めるのが分かった。気持ち悪くて仕方ないのだろう。即身即仏と説くのを聞いただけで耳を塞いで逃げるのは、ここにいたら騙されると言えば良いか、体験的には恥をかいたと言えば良いか、とりあえず状況が悪そうだから撤退という感じだろうか。気持ち悪いの延長かも知れない。



3、如何是仏

僧  「仏とは如何なるものでしょうか?」

自分 「一を得る。」


僧  「仏とは如何なるものでしょうか?」

自分 「息がつまって困る。」 



4、即心即仏の解釈

以前は心を迷い、仏を無心と捉え、その切り替わりが即であると解釈していた。即にはぴったりという意味と、直ちにという意味があるが、ニュアンスとしては直ちにというイメージが強かったように思う。このイメージは欲を抑制するという意味では大変な効果があったが、人間を迷いと仏に分けて捉える試み自体が分別そのものであるため、仏とは違うのだろう。ただ、違かろうがその効果には相当のものがあるため、状態が良いものはそのままにしておけば良いと考えていた。

今はすべてが仏であって、仏が認識されると心と呼ばれるというイメージのほうが理に適うと思っている。心と仏を隔てるものは認識のみであるから、心が仏の別名となるのは当然である。その意味で、即の意味もぴったりというイメージのほうが強くなった。あえてプロセスで説明すれば、まず仏があって遅れて認識による錯覚が起きているのが人間という事である。しかも、この錯覚を真実だと思いこんでしまうため、自分が仏そのものであることだけは認識できない。ここが難所である。



5、抱臟叫屈

故至与三頓棒。



6、感想

若能直下領略得去、掩耳便走。 ⇔ 驀直去。

文章の間を省いて最初と最後だけにすると、次則のテーマになる気がする。






2024年6月30日日曜日

無門関 29則 覚書

 【非風非幡】





風に聞いてみては如何ですかな?




1、なぞかけ

非風非幡とかけまして、円満な結婚生活と解く。

その心は、半目くらいが調度良い。


非風非幡とかけまして、よく根付いた雑草と解く。

その心は、スパッと斬りたい。



2、不是風動、不是幡動、仁者心動。

(その1)

風が動くのではありません。

幡が動くのでもありません。

お二方の心が動きなのです。


(その2)

心動かすのは、思いやり(仁)のみ。



3、不是心動。

(その1)

心が動きだとすると、動きという観念に固定される。

動きを止めては、動きでなくなる。

心 = 動 


(その2)

本物の仁は無為自然である。



4、関連性という視点

風は幡が動かなければ、あるか分からない。風の動きを認識させるのは幡である。風が吹かねば、幡は動きを得られない。幡の動きは風によって認識される。ならば、風と幡は別々のものとして考えるより、同じものとして考えたほうが筋が良いのかも知れない。実際、風や幡という名前は便宜上つけたのであり、本来これが風であり、これを幡とするといった決まりは存在しない。区別をつけられないのだ。では、風と幡が同じものだとすると、世界に対する定義は全く変わってしまうが、それが本来の姿なのである。

実はこれと同じ事が自分と風、自分と幡にも言える。自分が認識しなければ風も幡も存在せず、風と幡が存在しなければ自分もまた存在できない。風と幡を認識しなければ、自分と他を分ける必要性がなく、自ずから分かれないのだ。自分と風と幡は互いに存在するための必要十分条件なのである。では、自分と風と幡を同じものとして捉えると何が動くのかとなると、強いて言えば内臓のようなもので、動いているはずだがその動きを意識することはないとなる。もし意識することがあるなら健康が損なわれた時と考えるなら、人間は錯覚という不治の病にかかっていると言える。



5、往復曾未契理

幡の動きは風によって生まれるとするのが通常の感覚だが、妄想を取り除くという意味では、風によって動かされるという部分は余計とも言える。何故なら、それが妄想そのものだから。だが、そう考えるなら幡が動くという感覚も余計となり、幡自体すらが妄想ともなる。では風に着目したほうが理に適うと考えると、風が動くとなる。しかし、風だけでは風の動きは分からない。分からないのでは妄想は取り除けても何もなくなってしまう。何もないでは納得いかないとなれば、やはり旗が動くとするべきかとなる。堂々めぐりである。



6、感想

冒頭に「因みに風刹幡を颺ぐ」とあるが、風が法を説くと解釈してみたい。生きるという事は、それ自体が禅問答というメッセージではなかろうか。また、実践的には、何事にも心を込めて生きればそれで良いので、その意味で六祖が心が動いてると指摘したとも考えてみたい。




2024年6月23日日曜日

無門関 28則 覚書

 【久響竜潭】

無心の存在に目がいかなかったとき、空がどうと理屈で説明していただろう。それではいけないと聞いていても、それ以外に方法もなかったように思う。無心の存在にきづいてからは、無心になることを結果的にではなく、目的と考えるのがコツと説明していた。無心になる事自体が目的ならば、何をやっても無心になる事は避けられないため、何をやっても同じになる、と。そして、それすら無駄だったと思うこの頃は、経文は紙っぺらとなり、天地自然だけとなった。






薫風に 潭の在処を 見て取れば

久しく響く 竜の吹




1、空の説明の変遷(経験値4年~5年)

最初は有るようで無く、無いようで有るという性質を表す言葉で、調度目の前にある空気のようなものと説明していた。空気は空の気だから空気と名付けたのではないか、と。無心を意識するようになってからは、無心の状態が空だと説明した。そして、それすら余計な仕業だったと思うこの頃は、言おうとすると言葉が出ずただただ止まってしまう。不識である。



2、目的地が無心とは?

例えば、馬と徒歩を比べてどちらが速いかと問われれば、馬と答えるのが通常の感覚である。だが、それは目的地がどこか遠方の場合である。では、目的地が無心だとどうなるかと言えば、馬も徒歩も50歩100歩で同じと言って差し支えない。馬に乗りながら無心になるか、歩きながら無心になるかの違いはあれど、速やかに無心になっている事には変わりないのだから。例えば、遊びと仕事どちらが好きかと言えば、遊びと答えるのが通常の感覚である。だが、それは遊びと仕事を分けて考えているからである。無心、言い換えれば時間が飛ぶ感覚を目的地とするならば、遊びながら時間が飛ぶか、仕事に集中して時間が飛ぶかの違いはあれど、どちらでも時間が飛ぶことには変わりない。遊びでなくてはならない、仕事でなくてはならないと言う差はないのである。馬、徒歩、遊び、仕事と一見違う現象が、目的地が無心となればどれも同じになる。ここを抑えるのがコツである。

もし、ここが腑に落ちたならば、次はこう考えると良い。今まで馬に乗っている最中に無心になったと捉えていたが、その実は逆で無心が馬と言う形で現れたのではないか、と。無心に仕事をしたと思っていたが、実際は無心が仕事という形で現れただけなのではないか、と。



3、垂示

人生では誰しも一役演じなければならないとしても、

和尚よ、少々芝居がかり過ぎではありませんか?

いや、どうせなら大げさに演じて見せますか?

こう派手に決められては、

主人公は誰などと聞くのは野暮ですかな。

其処退、其処退、お馬が通るぞ。



4、修行川柳

その荷物 降ろせ降ろせと 言うなかれ

降ろしたいのよ 降ろせないのよ  



5、感想

「夜も更けた。そろそろ山を下りたらどうかね」という冒頭の言葉は、若かりし徳山に「仏法は無我の一字だろ」と言っているようで味がある。そこで徳山がその言葉を珍しく重くみてと続くが、ここを珍重して見られるようになったのは4年目に入ってからである。簾は錯覚の象徴、暗闇は徳山の心境と老子の言うところの玄を示すと観念で説明したくなるが、ここは前後裁断の感覚を綺麗に表現していると見たほうが実践的かと思う。ここでも気づかなかった徳山は明かりとなる火を求めるが、紙燭を受け取ろうとしたその動きこそ無心の用であり、茶屋の婆子の点心そのものである。また、そこに思考を挟む余地を与えずに火を消したも見どころで、そのために再度前後裁断を味わったと見たい。徳山に省があったのはたまたまだろう。火を消せば省を引き出せるなら苦労はない。



6、点心とは何か?

人間は認識するまでにコンマ3秒かかっている。これは人間が生きていると感じている世界はコンマ3秒遅れの世界であること意味し、この錯覚を意識できないまま生きているのが通例である。茶屋の婆子の質問にあった点心は、この錯覚を修正できますかという問いかけであり、コンマ3秒という認識による誤差を修正して見せてほしいと言っている事になる。



2024年6月15日土曜日

無門関 27則 覚書

 【不是心仏】

バベルの塔 = 言葉の塔

聖書にバベルの塔という話があるが、これは敬虔なキリスト者の辿るであろう道を物語に仕立てたのだろう。人はまず言葉によって神に近づこうとする。書物をひらき、だれかの話を聞き、神に近づこうと一生懸命に理論武装していく。この様がバベルの塔である。そうしてある時、神に出会うときが来る。すると今までの理論武装はすべて無駄だったと理解するのだ。これが塔の消滅である。そのあと神について論じている人たちを見ると、まるで言葉が通じなくなってしまったかの様にあべこべなのである。





【結論】

近づこうとすると遠ざかるが、

何もしなければ共にある。



感覚は他人に伝えられない。

例えば、痛みを他人に伝えようとして見ると良い。痛いことは伝えられても、その感覚は言葉にすれば何処か違うものになってしまう。例えば、笑いはどうだろう。何が面白いかを説明してその面白さは伝わらないはず。仏教も同じである。もう十分教えは尽くされているにも拘わらず信じきるに至らないのは、それが自分の感覚ではなく言葉の解釈だからである。どんなに有難いものでも、言葉から確信に至るのは難しい。



説かれたことがない法 = お前さん

僧 「今までに説かれたことがない法とはどのようなものですか?」

自分「汝に三頓の棒を放す。」



へとへとに疲れると言う実感が肝か?

今までに説かれたことがない法を言おうとすると、言葉が出てこない。 言葉が出てこないところを無理に言葉にしようとすれば、息がつまるような感じでへとへとに疲れる。



不是心、不是仏、不是物。

是にはこれと言う意味と、正しいという意味があるが、ここに妙味がある。これが心と思うと正しくない。これが仏と思えば正しくない。これが物(衆生)と思えば正しくない。ただ是であれば正しい。





2024年6月11日火曜日

無門関 26則 覚書

 【二僧卷簾】


<垂示>

得可得、非常得。失可失、非常失。

得即是失、失即是得。看破了也。



<本則>

ちなみに、

上の画像のどこを見れば法眼の意に叶うのだろう?


船だろうか?

水面に映った船だろうか?

いや、そのどちらでもない。

水面のほうだ。

いかん、それじゃいかん。


全体を一枚の絵として見るのだよ。

いかん、それじゃいかん。

風ではないかな。

いかん、それじゃいかん。




<著語>

さて、ここに手練れの禅僧がいたとして、

彼なら何と応えるだろうか?


そりゃあ、お前さん。

頭を搔いて誤魔化すさ。




【感想】

今回は「斎前上参」に尽きる気はする。「清浄を前にして上参す」と訳すと趣がある。また、二僧のように仕える気持ちで生きるのが、実生活におけるコツだろう。禅の世界では上下関係が厳しいと聞くが、自然と奉仕できるような癖をつけるためではないか。上記は老子の1番、碧巌録98則、般若心経を参考にしている。






2024年6月7日金曜日

無門関 25則 覚書

 【三座説法】

ある昼下がり田植えをしていると、カエルの鳴き声が耳に入ってきた。耳を澄ますと、外から聞こえてきたはずの音が自分の内側から鳴っていた。この音は自分が鳴らしているのかと、そう思った。それから一時、聞こえる音すべてを自分が鳴らしている何とも奇妙な世界になった。







カエル「夢でも見たんじゃないの?」