2017年11月4日土曜日

孫子の兵法 地形編その4

4、卒を視ること嬰児のごとし

孫子曰く。「卒を視ること嬰児のごとし、故にこれと深谿に赴くべし。卒を視ること愛子のごとし、故にこれと倶に死すべし。厚くして使うこと能わず、愛して令すること能わず、乱れて治むること能わざれば、譬えば驕子のごとく、用うべからざるなり。」



【解説】

孫子曰く。「兵(卒)は赤子(嬰児)にするように目(視)をかけてやると良い。そうすると、深い谷底であっても行動を共にしてくれる(赴)。兵(卒)は最愛の子のように目(視)をかけてやると良い。そうすると、共(俱)に死んでくれる。

厚遇しても使う事が出来ず、愛情をもって接するも命令出来ない。軍規を乱しても従(治)わせられないのであれば、例えて言うなら(譬)付けあがった子供(驕子)のようなものである。使い物にならなくなる。」






この世は鏡のようなものと言われるが、人の世は全くもって不思議なもので、映し鏡と思って良い。自分が悲しければ、景色も何処か悲し気に見えるし、自分が楽しければ、普段は嫌な雨さえも陽気な彩を放つ。自分が誰かの悪口を言えば、相手も大概は悪口を言っているし、自分が好ましく思っていれば、相手も大概は好ましく思ってくれる。世界は鏡なのである。

では、将が兵を親身になって育てたらどうだろう?どんな危険な処へも共に行ってくれるようになるし、一緒に死線を超えてくれると孫子は言うのである。まるで自分の子のように手塩にかけられた兵は、将を親父と思うようになる。さもあらんだろう。厳しく愛情を持って育てられるほど、後々になって世話になったと思うものである。

ただ、甘やかしてはいけない。躾のされない子供を想像して欲しい。動物と同じである。兵もかくのごとし。甘やかして育てれば、言う事を聞かなくても良いと勘違いするようになり、兵としては役に立たなくなってしまう。躾とは、裁縫で縫い目が狂わないようにするために、仮に荒く縫い合わせる事である。躾るとは、甘やかす事では無く、痛くてもある状態に固定する事を言うのだ。可愛い我が子と思えばこそ、例え痛くても、親は子共を躾けるのだ。

仕事で考えてみよう。最近は怒ってはいけないとか言われている様子だが、怒らないとは要は躾の放棄である。躾をすれば痛いに決まっている。それをしてはいけないとは、会社が若者を育てる事を放棄したという事だ。時代遅れと言われそうな感覚かも知れないが、昔から伝わってきた躾の在り方をしっかり見直すべきだろう。

何故、怒られると若者が続かないのか?それは、この手の話をちゃんと教えないからだ。そんな手取り足取りと思う人もいるだろうが、孫子ですら赤子に接するようにと言っているでは無いか?育てるとは、何時の時代もそういうものなのである。

余談だが、厳しく育てられるほど、人は後々になってから世話になったと思うもの。親子で言えば、一番出来の悪い子と思っていた子が、一番世話をしてくれる。逆に出来が良いからと、手のかからなかった子は最後に世話はしてくれない。世話になった記憶が無いからだ。怒られた回数が、世話になった回数と思うのが人情なのである。躾は痛いものだが、痛いからこそ記憶に残る。

2017年11月3日金曜日

孫子の兵法 地形編その3

3、地形は兵の助けなり

孫子曰く。「それ地形は兵の助けなり。敵を料りて勝ちを制し、険阨遠近を計るは、上将の道なり。これを知りて戦いを用うる者は必ず勝ち、これを知らずして戦いを用うる者は必ず敗る。故に戦道必ず勝たば、主は戦うなかれと曰うとも必ず戦いて可なり。戦道勝たずんば、主は必ず戦えと曰うとも戦うなくして可なり。故に進んで名を求めず、退いて罪を避けず、ただ民をこれ保ちて而して利、主に合うは、国の宝なり。」



【解説】

孫子曰く。「地形とは、兵の助けとなるものである。敵状を良く把握し(料)勝ちをおさめる(制)ためには、地形が険しいのか平坦なのか、狭(阨)いのか広いのか、遠いのか近いのかの各条件を計算した作戦を立案するのが良く、それが上将たる者の役目となる(道)。これを知り、地形を有利に活用できる者が戦えば必ず勝ち、これを知らず、地形を兵の助けにできない者が戦えば必ず負ける。

故に戦の道理に照らして必ず勝つのであれば、君主が戦うなと言おうとも必ず戦うべきである(可)。逆に戦の道理に照らしてまず勝てないならば、君主が戦えと言おうとも戦うべきではない。自ら進んで名声を求めるのではなく、退却するべき時は退却し罪を避けようとせず、ただ人民の安全を請け負い(保)当然のように(而)君主の利益となる(合)ような将は、国の宝である。」






地形には、有利と不利がある。端的に言えは、孫子が言わんとする事はこれだけである。有利と不利があるのだから、常に有利を心がければ勝ちやすいし、常に不利な状態で戦えば損害は大きくでる。そのため、将たる者は作戦立案の段階で、地形上の有利不利をしっかり考慮するようにと孫子は指摘している。これは地形によって勝敗が左右される事を知る者にとっては当然の話だし、知らなければ勝てないのも、地形によって勝敗は左右されるのだから当然となる。

そして、孫子は再度、君子の口出しを敗因としてあげている。戦に勝てるかどうかは戦の道理に照らして、例えば地形上の有利を得ているから勝てるのであって、君子が偉大だから勝てるのではない。したがって、勝敗は戦の道理に照らして判断するべきであり、君子の口出しで決めてはならない。勝てるのが道理なら戦い、負けるのが道理なら戦わない。

ただ、そうすると君子との関係がギクシャクするかも知れない。勝てば疎まれ、負ければ罰を覚悟せねばならない。しかし、兵の命をより多く助ける事、人民の命を助ける事こそ君子の利益なのだから、名声を得ようとするのではなく、罰を恐れるのでなく、唯々戦の道理に従う者こそが国の宝であると、孫子は指摘している。

孫子の言っている事は真にその通りだが、実際は絶対権力者の君子に逆らうのは好ましくない。名声云々もさることながら、下手すると命の危険まである。そのため、将たる自分の意見を君子が採用するように誘導できる将が、現実的には優れた将と言えるかも知れない。君子が口を出そうとも、自分と同じ考えであるならば問題ない。ここら辺が君子対策の抜け道となろう。

また、名将の生きる道は優れた敵あればこそである。通常、名声を得る事は良い事だが、敵がいなくなると国内の権力闘争では邪魔とされるようになる。名声の元に人望が集まるが、それを君子が見たらどう思うだろうか?自分に取って代わられるとおびえ始めるのも、過去の歴史を見れば明らかである。そのため、真の名将たるには引き際も心得ていなければならず、自分の身分は優れた敵あればこそと言う事も忘れてはならない。

中国の古代史を見ると、秦の中華統一に大きな貢献をした王翦と言う希代の名将がいる。彼は秦の始皇帝の疑い深さを見抜いて、戦の報酬を何度も確認し、自分は単に欲の深い人間で天下に興味はないと思わせたと言う逸話が残っている。戦場から使者を送ってまで、何度も繰り返し報酬の確認をする王翦に、始皇帝もあきれたそうだ。しかし、だからこそ始皇帝の警戒心を解く事ができたのだ。名将の存在は、優れた敵があればこそ。優れた敵のいなくなった名将など、ただ疎まれるだけの存在になると言う事を、王翦は良く知っていたのである。

仕事で考えて見よう。大企業による不正のニュースが流れる事が多くなった。最近流されているニュースの大概は国際政治のあやであり、日本の政治的不甲斐なさを感じるものが多いが、それでも不正は不正である。大いに反省しなければならないだろう。

不正にも、まず初めがあるものだ。初め誰かが不正をし、大概はそれが見逃される事から始まる。見逃す側の気持は分らないでもない。余計な面倒ごとに巻き込まれたくないだろうし、上司の建前指摘出来ない事もあるだろう。だが、結果として、それがTVを騒がすニュースにまで発展させるのだ。面倒事に巻き込まれないはずが、大規模リストラである。何をやってるんだか分からないだろう。

孫子の兵法を活かすなら、罰則を恐れず不正を止め、例え相手が上司であれ不正はいけないと襟を正す。それが本当に会社の為になるのである。不正をし始めると、見つかるまで止めれないもの。止めれるなら、TVにかぎつけられる何てことにならない。何度も不正を繰り返すうちに、会社を面白く思わない内部の者からリークがあり、ああいった大ニュースに発展するのである。最初に止めて置けばかすり傷で済む事を忘れてはいけない。

本当の宝とは、名声のために仕事するのではなく、会社のために仕事をしていたら名声がついてきたという人物であり、罰則を恐れて判断を間違う事の無い人物である。孫子の言う事にも一理あろう。経営者は会社にとって大切な人物を間違えないよう、雇われる側は不正は絶対にばれるという認識をもち、特に上を上手く説得力する力を磨くのが現実的かと思う。



---- 以下、余談 ----

不正が見つかると言う話に関連するのだが、PCは情報がのぞき放題と言う話を知っているだろうか?スマートと名がつくものは持つなと警告されている事を知っているだろうか?どちらも公共のもので、情報は共有されているという認識の元で使わないといけない。決してプライベートなアイテムとは思わないほうが良いだろう。詳しくは検索して欲しい。参考までに。

(-87,68

2017年11月2日木曜日

孫子の兵法 地形編その2

2、敗北を招く六つの状態

孫子曰く。「故に兵には、走なる者あり、弛なる者あり、陥なる者あり、崩なる者あり、乱なる者あり、北なる者あり。およそこの六者は、天の災に非ず、将の過ちなり。それ勢い均しきとき、一を以て十を撃つを走と曰う。卒強くして吏弱きを弛と曰う。吏強くして卒弱きを陥と曰う。

大吏怒りて服さず、敵に遭えばうらみて自ら戦い、将は其の能を知らざるを崩と曰う。将弱くして厳ならず、教道も明かならずして、吏卒常なく、兵を陳ぬること縦横なるを乱と曰う。将、敵を料ること能わず、小を以て衆に合い、弱を以て強を撃ち、兵に選鋒なきを北と曰う。およそこの六者は敗の道なり。将の至任にして、察せざるべからざるなり。」



【解説】

孫子曰く。「そして、兵には走、弛、陥、崩、乱、北と言う敗北につながる六つの状態がある。およそこの六つは、天の災いという訳では無く、将の犯す過ちとなる。敵味方の勢力が拮抗(均)している時に、十倍の敵を攻撃する状態になると逃げだす兵が出てくることから、これを走と言う。兵(卒)が強く士官(吏)が弱いと、兵に舐められるか、兵を使いこなせず軍が弛む事から、これを弛と言う。

逆に、士官(吏)が強く兵(卒)が弱すぎる場合、士官に兵がついてこれないため、士官の能力を発揮できない状態に陥る。そこで、これを陥と言う。地位の高い士官(大吏)が怒りから命令に服従せず、敵に遭遇すれば恨みから独断で戦ってしまう。そして、将軍がその事を知らなかった場合、軍の編成の意味がなくなる。則ち軍は崩壊する事から、これを崩と言う。

将が弱く威厳に欠け、教えるべき義理や道徳(道)、例えば軍規が明らかでないために、士官(吏)も兵も自由気ままであり(常無)、兵の配列(陳)にも決まった物が無い状態(縦横)は乱れた状態であるから、これを乱と言う。将に敵状を計(料)る能力が無く、少人数で大勢(衆)の敵を攻撃したり(合)、自軍の弱い部隊で敵の強い部隊を攻撃したり、兵から先鋒となるべき精鋭を選べない状態は敗北濃厚であるから、これを北と言う。およそこの六つの状態になってしまうと、敗北するのは道理である。将はこういった状態に陥らないよう配慮するのが任務であり、良く考えない事があってはならない(察)。」






前回は地形ごとの注意点を紹介した孫子が、今回は敗北につながる軍の状態を六つ紹介している。孫子が言うには、走、弛、陥、崩、乱、北という敗北につながる状態があり、これは天災では無く、将による人災であるそうだ。努々注意すべしと言う事だろう。



その1、走

走とは敗走であるとか、逃げ出すというイメージの状態である。例えば、十倍の敵と戦うとしよう。将の意気はさておき、負ける事がほぼ決まった戦いであろう。そうなると、ついて行けないと兵が逃げ出すのである。これを走と言う。


その2、弛

弛は字の通り弛んだ状態をイメージすれば良い。例えば、兵が士官よりも各段に強い場合、どうしても士官は舐められる。それは良い事では無いが、人情として自分より弱い者の下で働こうとは思わないものだ。子供の指揮で大人が戦うだろうか?つまりそう言う事だ。ましてや命を預けるのだから尚更である。結果、士官が軽視され軍に締まりがなくなるのである。だから、これを弛と言う。


その3、陥

陥は、能力制限に陥ると言うイメージとなる。如何に優れた士官でも、初心者を指揮するのと、古強者を指揮するのでは勝手が違ってくる。初心者ではやる気があっても出来る事は限られるし、やる気自体が無い事もある。やる気の無い部隊を用いたなら、どうして勝てようか?そもそも戦ってすらくれないかも知れない。士官の能力を発揮するには、それに見合った兵が必要となるのである。士官と兵に力の差があまりにもある場合、士官の能力が制限に陥るため、これを陥と言う。


その4、崩

崩は、軍が総崩れになる状態をイメージすれば良い。当然のことながら、軍の各部隊が将の手足のように動けて初めて強い軍となる。その手足となる部隊が勝手に動き始めたらどうだろうか?それは貴方の手足が貴方の言う事を聞かないのと同じである。非常に困った事になるはずだ。

各部隊を預かる士官は、通常は将の命令に服従するが、恨みから命令を無視する事がある。それでも、将がすぐ気づければまだ対応も取れるのだが、気づかぬ場合は将が味方によって裏をかかれる事になってしまうだろう。動いているはずの部隊が動いていなかったり、待機しているはずの部隊が攻撃しているのだ。将はまさかの落とし穴に落ち、軍が崩れるのである。よって、これを崩と言う。


その5、乱

乱は、そのまま乱れた状態の事だ。例えば、服装が乱れると言えばどういう状態だろうか?髪形が乱れるとはどういう状態だろうか?それが軍だったらと言うイメージとなる。軍をまとめるのは規律や道徳である。規律や道徳が無ければ、兵はそれぞれ自由気ままに振る舞うし、命令を守る義務もない。これでは乱れた髪のように収拾がつかない。

軍の配列を考えても、例えば、騎兵の前に輸送部隊の貨物があったらどうだろう?騎兵が動くスペースがなくなってしまい、そのスピードを活かせない。これは例えば、散らかった部屋(乱)のイメージだ。配列のされない軍は、言わば足の踏み場の無い部屋なのである。よって、こういった状態を乱と言う。


その6、北

北と言うと東西南北の北を連想するが、北と書いて「逃げる」と読む場合がある。ここでの北は逃げるほうの北で、そのまま敗走や敗北と言ったイメージとなる。例えば、少数で多勢を相手にしたら負けるだろう。不慣れな者の多い部隊で、敵の精鋭部隊と戦えば負けるだろう。敵の部隊を強襲するにも、不慣れな兵で強襲と呼べるものになるだろうか?

強襲の字が示す通りになるためには、精鋭の兵でなくてはならない。その精鋭もいないのでは、強襲もままならない。当たり前の事だが、将が敵状を計る能力に乏しい場合、こういった愚を犯す。そして、当然のように敗北することから、これを北と言う。



仕事で考えて見よう。孫子は将の至任と言う言葉を使っているが、日本的には背負うという事だろう。数字を背負って歩く。その責任感、その矜持を得た時、初めてプロフェッショナルとして一人前と言えるかも知れない。

さて、学ぶことが大切として、前回に引き続き読書に触れて見よう。同じ本を何回読んだら良いだろう?こんな疑問を持った事がないだろうか?誰しも一度は考える事だと思う。ただ、その答えは明快で、身に付くまでである。

初めて本を読んだ時、良い事が書いてあるとか、勉強になったと思うだろう。2回目、3回目と読んで見ると、書いてる事を知ってると思うようになる。「それ知ってる」と言う感覚だ。4回目、5回目になると、俺もそう思うとか、実は自分もそうしてると共感になって行く。6回目、7回目にまでなれば、当たり前の事ばかり書いてると感じるようになる。初めは勉強になると思っていた本が、7回目には当たり前と思うようになるのだ。これにて身に付いたと言う。回数は個人差があると思うが、参考になればと思う。

2017年11月1日水曜日

孫子の兵法 地形編

1、六種類の地形

 孫子曰く。「地形には、通なる者あり、挂なる者あり、支なる者あり、隘なる者あり、険なる者あり、遠き者あり。我以て往くべく、彼以て来たるべきを通と曰う。通ずる形には、先ず高陽に居り、糧道を利して以て戦わば、則ち利あり。以て往くべく、以て返り難きを挂と曰う。挂ぐる形には、敵に備え無ければ出でてこれに勝ち、敵もし備え有れば出でて勝たず、以て返り難くして、不利なり。我出でて不利、彼れも出でて不利なるを支と曰う。支なる形には、敵 我れを利すといえども、我出ずること無かれ。引きてこれを去り、敵をして半ば出でしめてこれを撃つは利なり。

隘なる形には、我れ先ずこれに居らば、必らずこれを盈たして以て敵を待つ。もし敵先ずこれに居り、盈つれば而ち従うことなかれ。盈たざれば而ちこれに従え。険なる形には、我先ずこれに居れば、必ず高陽に居りて以て敵を待つ。もし敵先ずこれに居らば、引きてこれを去りて従うことなかれ。遠なる形には、勢い均しければ以て戦いを挑み難く、戦わば而ち不利なり。およそこの六者は地の道なり。将の至任にして、察せざるべからざず。」



【解説】

孫子曰く。「地形にはその特徴ごとに通、挂、支、隘、険、遠の6種類がある。此方(我)から行(往)く事ができ、彼方からも来ることができる地形を通と言う。通じた地形では、先ず日のあたりの良い高地(高陽)に布陣し、補給路(糧道)を確保(利)して戦えば有利となる。此方から行く事はできるが、返る事は難しい地形を引っ掛かると言う意味で挂と言う。掛かる地形では、敵が無防備ならば攻めれば勝てるが、敵にもし万全の防御態勢があれば攻めても勝てない。返りづらい分、不利となる。

此方(我)から出ても不利、彼方から出ても不利となる地形を支と言う。支は字の示す通り枝道に分かれた地形の事だが、こういった地形では敵が不利に見えようとも(利)、此方から進攻(出)してはならない。引いて去ると見せかけて、敵が半分ほど進攻してきた所を撃つのが有利となる。入口が狭(隘)い地形を隘と言う。隘なる地形では、先着したならば、必ずその場所を占拠(盈)して敵を待つのが良い。もし、敵の先着を許し、場所が占拠(盈)されているなら攻(従)めてはならない。場所がまだ占拠(盈)されていないなら、当然(而)、攻(従)めて良い。

険しい地形では、先着したならば日当たりの良い高地(高陽)を占拠し、敵を待つ。もし、敵が先着を許したならば、戦う事は諦め(引)去るのが良く、攻(従)めてはならない。敵と遠く離れた地形では、勢力が均等なら戦いを挑みづらく(難)、戦えば当然(而)不利となる。およそこの六つが地形ごとの戦い方の道理である。そして、その選択が将たる者の任務なのだから、良く考えない事があってはならない(察)。」







孫子が6種類ある地形ごとの注意点を語っている。通と言われる往来がしやすい土地や、険と言われる切立った崖のような険しい地形では、日当たりの良い高地に陣取り、病気を防ぎ傾斜による地の利を得ると良い。そして補給路を確保するたなら、万全の態勢で敵を迎え撃てるため有利である。これは孫子が度々触れてきた通りである。

行きやすいが戻りづらい、まるで引っ掛かりがあるような桂と言われる地形では、戻れないなのだから攻め時を間違えば大損害による敗退が待っているのは言うまでもない。言わば片道キップを意識した戦いが求められるため、攻めきれないならば攻めてはいけないと孫子は言う。当然であろう。

支と言われる枝道のようになっている地形では、敵を誘い込んで撃つのが良いそうだ。恐らく枝道で兵がどうしても分散されるからであろう。敵が塊ではなく分散して攻撃してきた処を各個撃破が良い戦い方であると指摘している。少数を圧倒的多数をもって撃つが孫子の兵法の基本だが、枝道によって敵が強制的に少数に分散されるというイメージと思う。そのため、此方から攻めると兵力分散の愚を犯すのだから、避けなければならないわけだ。

隘と言われる谷間の道ような狭くなっている地形は、、狭い道では狙い撃ちされやすいというイメージを持てば理解しやすいだろう。土地にゆとりがなく、一度の大勢が入れない地形なのだから、どうしても少人数ごとに入る事になる。そこを一斉に狙い打てば勝ちやすいと言うわけだ。そのため、まずは場所を占拠し、相手がくるのを待ち伏せするのが良いと孫子は指摘している。狙い撃たれるのだから、相手が占拠した場合は行ってはならず、相手が占拠できていないなら状況は五分だから攻めても良い。これは狭い土地を利用した大軍を少人数にするテクニックだ。

敵と遠く離れた場合を遠なる地形と言うが、この場合に問題になるのが補給線の確保である。はるばる遠征すれば補給線が伸びるため、狙われやすく維持するのも大変である。長い補給路を守るために人員を割くのはコスト高なのだ。そして、遠征した場合、戦地での地の利を得るのがとても難しい。補給部隊は足が遅いが、補給部隊が無くては戦争は負けてしまう。動きの遅い補給部隊を如何に速く戦地に届けるかが、その後の戦況を大きく左右するのである。だが、遠地まではるばる補給部隊を届けるまで、敵が待っていてくれるだろうか?此方から遠地なら、敵からは近いのである。そのため、戦力が拮抗している場合、地の利は敵に奪われ不利な戦いを強いられる事になる。この辺の説明は軍争編にまとまっている。

このように地形ごとに注意すべき点が異なるのだから、将たる者は良く地形を把握し、熟考のもとで戦わなくてはいけないと孫子は言っている。地形による戦い方の基本も知らないのでは、勝てる戦も勝てない。将たる者は良く学び、良く考え、足元をすくわれないようにする事こそが任務なのである。

仕事で考えて見よう。仕事でも学ぶ事、良く考える事が大切だろう。優れたリーダーは須く読書家と言われる。どれだけ本を読むかが、リーダーを作り上げる側面があるのだ。その読み方にもよるが、おおよそ1000冊読むと様々な知識が脳内で有機的に結合し、色々な事を考えられるようになるそうだ。通常、何冊読んだかは数えていないだろうが、1000冊読むことを一つの目安にすると別世界になるかも知れない。

「愚者は経験に学び、智者は歴史に学ぶ」と言う諺があるが、孫子もはるか2500年前に同じ事を指摘していたと言えそうだ。時代は変われど、同じ人間である。大事な事は変わらないのだろう。孫子が指摘している地形ごとの戦い方は、時代に合わなくなっている。だが、孫子が何を言わんとしているのかの背景を考えれば、現代にも応用が利くだろう。

2017年10月30日月曜日

孫子の兵法 行軍編その8

8、兵は多きを益とするに非ず

孫子曰く。「兵は多きを益とするに非ざるなり。ただ武進することなく、以って力を併わせて敵を料るに足らば、人を取らんのみ。それただ慮り無くして敵を易る者は、必ず人に擒にせらる。

卒、いまだ親附せざるに而もこれを罰すれば、則ち服せず。服せざれば則ち用ひ難きなり。卒すでに親附せるに而も罰行なわれざれば、則ち用うべからざるなり。故にこれに令するに文を以てし、これを斉うるに武を以てする。これを必取と謂う。令、素より行なわれて、以てその民を教うれば、則ち民服す。令、素より行なわれずして、以て其の民を教うれば、則ち民服せず。令、素より行なわるる者は、衆と相得るなり。」



【解説】

孫子曰く。「兵は多ければ良い(益)と言うものではない(非)。ただ猛々しく(武)進のではなく、兵の力を結集(併)させて敵を推し量る(料)事が出来るなら(足)、人数を用意(取)する必要もない。それを深く考える(慮)事も無く敵を軽(易)んずる者は、必ず敵に捕縛(擒)される。

兵(卒)が今だ親しみをもって付き従う(親附)わけでも無いのに、当然のように(而し)罰するなら、心服はしない。心服しない兵を用いるのは難しいものだ。兵(卒)が親しみをもって従ってくれる(親附)からといって、当然のように(而)罰を行わないなら、兵に十分な働き(用)をさせる事は出来ないだろう。故に兵を従わせる(令)には温情のある教育(文)が、軍をまとめる(斉)には厳正な規律(武)が必要なのだ。これを必勝(取)の軍と言(謂)う。

規律(令)が平素より守(行)られた上で、民に教えるならば、民は従(服)う。規律(令)が平素より守(行)られていないのに、民に教えても、民は従(服)いはしない。規律(令)が平素より守られているからこそ、大勢(衆)が良く調べ(相)自分のものとして理解する(得)のである。」





テーマが3つある様子なので、3つに区切って説明しよう。


その1、兵は多ければ良いわけでは無い。

兵は多ければ良いわけでは無く、少人数でも兵力を集中し、相手の弱点を把握しながら攻めれば十分戦える。幾ら兵を集めても、相手を甘く見て突撃をするだけの将では、捕縛されるのが落ちだと孫子は言う。さもあらんだろう。

平原でなら大人数は脅威となるが、戦争では罠を掛けあうもの。将が考えも無しでは、罠にかかって一網打尽になろう。例えば、将が突撃し補給部隊の防衛が手薄になるよう仕組まれたとしよう。将が思慮深ければ補給部隊が襲われるミスは犯さないが、考え無しに突っ込むタイプの将は、少し挑発されれば突撃してしまう。そして、そこを待ってましたと補給部隊が強襲され、食料を奪われてしまう事もある。

食料がなくなれば、大人数の部隊を維持できなくなる。そうなると人数的には優勢であったはずが撤退を考えねばならないし、場合によっては全滅の危険すらある。将が死ぬのは嫌と降伏すれば捕縛される事になる。兵は多ければ良いわけでは無い。将が思慮深くて初めて大人数が活きるのである。

中国の実際の歴史を見ると、敵に撤退すると見せかけて相手をおびき寄せ、食らいついた処を反転攻勢から一網打尽にするのが良い策と吹き込んだ例もある。大人数は小回りが利かない。少人数なら反転攻勢も出来るが、10万の大人数は撤退し始めると反転攻勢という訳にはいかないのだが、相手がそれを知らない処を騙したわけだ。

撤退の雰囲気になった兵の士気を再度高めるのは至難の業だ。それを知らない将が撤退を開始した処、一気に攻め立てられてしまった。何せ撤退した側の兵には戦う気が無いのだ。逃げるくらいしか出来ない。反転攻勢など現実には不可能な話だったのである。まさに兵は詐によって立つである。




その2、令するに文を以てし、斉うるに武を以てする。

信頼関係の無い人間に罰を与えれば、心が離れていく。信頼関係があるからと言って罰を与えなければ、それを見ていた他の者が真似をするだけ。規律が形骸化し、命令違反から軍が機能しなくなる。兵との間に信頼関係を築く事と、罰すべきはしっかり罰する事の両方が大切だと孫子は言う。

特に「令するに文を以てし、これを斉うるに武を以てする」の解釈が難しい気がする。令するとは命令する事だが、文を以っての意味は広い。文は文武両道の文であるため、字と言う意味もあれば、絵などの芸事の意味もあり、さらに中国語では騙すと言う意味合いもあるようだ。

これらを総合して考えると、兵は言う事を聞かないのが普通なのだから、言う事を聞かすには、字を教えたり、芸事で楽しませ騙す事が必要になると言うニュアンスになろう。これを日本人的には温情を掛けると言うのだが、孫子は性悪説の文化圏の人間であるため、兵を騙さねば兵は従えられないという感覚では無いだろうか?文を以っての意味は広い。

斉は元々は整えるという意味の象形文字であるため、斉うるは軍を整えると言う意味となる。命令違反などで収拾が付かない軍ではなく、ビシっとまとまった軍をイメージすれば良いだろう。武を以っては、恐らく武力で無理やりというニュアンスと思われる。規律によって軍をまとめるのだが、規律を何故兵が守るかと言えば、武力が怖いからである。そのため、孫子は武を強調しているのだろう。彼が性悪説である事を考えれば、武によって対処せよと言うのが感覚として正しいわけだ。




その3、普段から規律が守られてるからこそ。

軍と言っても、昔は民衆から兵を集うわけだから、民と軍の差も何処まであるかは分からないが、孫子が言わんとする事はハッキリしている。普段から誰も守っていないような規律を、守れを言っても誰も守らない。だから、普段から規律を守りなさいという訳だ。普段から規律が厳しく守られていれば、民衆も守らねば生きていけない。結果、民衆も規律を良く勉強するようになると孫子は言う。

中国では「上に政策あれば、下に対策あり」と言われる。それくらい個の認識が強い国であるため、規律を守らせるには規律を守らねば生きていけないと思わせる必要があるのだろう。そこで、普段から規律を厳しく取り締まる事が必要と言っているのでは無いだろうか?規律に抜け穴があると、それを対策としてこぞって利用される。統治者側からすれば、規律を守る事が一番だと思わせる必要があるわけだ。




仕事で考えて見よう。ここで孫子が言っている事は、現代の言葉になおせば、信頼関係の構築と公正な評価基準だ。部下との信頼関係は大丈夫だろうか?会社に公正な評価基準はあるだろうか?それぞれ見直しておきたい話となる。

信頼関係の基本は、こいつを絶対一人前にしてやると言う気持ちだ。これさえ持っていれば、幾ら怒っても気持ちは伝わるもの。小手先の話術に頼るのではなく、心でぶつかると良い。昔は愛のムチと言って叩かれる事もあったが、何故問題にならなかったのか?それは、心が伝わったからである。この上司は俺を一人前にしてくれようとしていると思えば、叩かれても愛を感じたのである。

流石に今は叩く事が薦められる時代では無いが、心に愛情を以ってと言う部分は変わらない。温情をもった教育を心がけたい。そして、公正な評価基準が必要な理由は、孫子が言っている通りだ。公正さがあるからこそ、人はやる気になるのである。えこひいきを見せられたら、やってられないと思われるだけであろう。公正な評価基準が普段から守られているからこそ、頑張れば報われるとやる気になってもらえる。

2017年10月29日日曜日

孫子の兵法 行軍編その7

7、数賞するは窘しむなり

孫子曰く。「数賞するは、窘しむなり。数罰するは、困しむなり。先に暴にして後にその衆を畏るるは、不精の至りなり。来たりて委謝するは、休息を欲するなり。兵怒りて相迎え、久しくして合せず、又た相去らざるは、必ず謹みてこれを察せよ。」



【解説】

孫子曰く。「しばしば(数)賞を与えるのは、士気が低下し困(窘)っている事の裏返しである。しばしば(数)罰するなら、兵士が言う事を聞かなくて困っているのだ。兵士達を乱暴に扱った挙句、後になって兵士の仕返しを恐(畏)れるのは、配慮を面倒臭がっている(不精の至り)。使節団が来て謝るとすれば(委謝)、軍の休息時間を稼ごうとしている(欲)。敵が怒気と共に攻めてきたのに(相迎)、時間がたっても(久)合戦にならず、かと言って去ろうともしないなら、必ず慎重(謹)にこれを観察しなければならない。」






まずは、さらに意訳してみる。孫子曰く。「賞は珍しいからこそ有難みがあるのだから、乱発するようでは軍の士気が低くなっていると見てよい。懲罰も同じで乱発すれば空気が悪くなるはずが、それをやらなくてはならない理由がある。恐らく軍首脳部は頭を悩ませているだろう。怒り方一つとっても、兵士の仕返しを恐れる将が多いなら、配慮が足りない軍と言わざる得ない。一事が万事だ。その配慮の足りなさは、必ず他の面でも出てこよう。

また、戦いの最中に、敵の使節団が来て贈答品と共に謝ってくることがあれば、それは本音と思わないほうが良い。敵は単に時間を稼ごうとしているのだ。恐らく軍が休息を欲しているのだろう。好機かも知れない。もし、敵が攻めてきたのに戦おうとせず、退却もしないなら、敵を良く観察しなさい。謀略の匂いがする。」

総じて、通常とは可笑しい行為があれば大よそマイナスなのだから、注意して観察せよと孫子は言っているのだろう。戦争の場合、攻めるタイミングを模索するわけだが、相手が準備できていない時に攻めるのが一番勝ちやすい。そう考えて見れば、孫子が何故こういった行為に注意しているのか分かる。今攻められたら困りますか?と聞いても、相手は全然問題ないと言うに決まっている。だが、ちょっとした事に敵軍のほころびが出ているものなのだ。

今回は特に日本と海外の文化の大きな違いである性善説、性悪説について考えて見よう。日本では人は生まれながらにして良いものであるとし、海外では人は生まれながらに罪を背負っていると考えている。この感覚の違いが、孫子の兵法でも見て取れるのだ。例えば、孫子は敵の使節団が謝りに来たのを、謝りに来たのではなく時間稼ぎに来たと言っているが、この感覚こそ性悪説だろう。

何故この話をしたかと言うと、日本人的な感覚で海外の文化を見ると危ないからだ。日本人も使節団が謝りに来たとして、それが時間稼ぎになる事は分かるだろう。しかし、時間稼ぎに来たとバッサリ斬れるだろうか?正々堂々や、惻隠の情を旨とする日本人にとっては難しい事のように思う。だが、孫子は性悪説に則ってるため、どうせ騙しに来たのだろうとバッサリ斬れてしまうのだ。日本人は海外の人も日本人と同じ感覚で生きていると誤解しがちだが、実は全く違う。簡単にだが、感覚の差を確認しておきたい。

遠からずAIによる自動翻訳機が出来、これからは言語の壁がなくなる。今までは英語だけは話せるように勉強しなさいと言われたが、これからは英語なんて勉強しているのかと言われるようになる。自分で不慣れな英語を話すより、自動翻訳機を通したほうが確実に伝わるようになるからだ。日本人は英語が話せない人が多かったために、国際交流が遅れた側面があったが、これからは言語の壁がなくなるため国際交流も進む事だろう。より海外の人と付き合うようになれば、性善説と性悪説の違いは必ず問題となる。誤解から足元をすくわれないよう、日本人に精神武装が求められている事を知っておきたい。


2017年10月27日金曜日

孫子の兵法 行軍編その6

6、利を見て進まざる者は労るるなり

孫子曰く。「杖つきて立つは、飢うるなり。汲みて先ず飲むは、渇するなり。利を見て進まざるは、労るるなり。鳥の集まるは、虚しきなり。夜呼ぶは、恐るるなり。軍の擾るるは、将重からざるなり。旌旗動くは、乱るるなり。吏怒るは、倦みたるなり。馬を殺して肉食するは、軍に糧なきなり。軍、缻を懸くることなくしてその舎に返らざるは、窮寇なり。諄々翕々として徐に人と言うは、衆を失うなり。」



【解説】

孫子曰く。「兵が杖をつきながら立っているのは、飢えているからだ。水を汲んだ兵が先ず水を飲んだなら、その軍は渇きに苦しんでいる。有利な戦況なはずなのに進攻しないなら、疲(労)れているのである。鳥が集まっているなら、人がいない(虚)のだ。夜に呼び声がするのは、恐れているに他ならない。

軍が騒(擾)がしいのは、将軍に威厳(重)が無いからである。旌旗が揺れ動くのは、将兵に混乱が生じているのだ。役人(吏)が怒っているなら、兵が疲れて怠けている(倦)。馬を殺して肉を食しているなら、軍に食料が無い。軍が炊事道具(缻)を吊(懸)り下げず宿舎に戻(返)らないのは、決死の覚悟(窮寇)をしているからだ。上官が懇切丁寧(諄々翕々)にゆっくり(徐)と部下に話すのは、部下の気持(衆)が離れているのだ。」






孫子は色々な切り口で分析している事が伝わってくる。遠目にも敵の状況は、兵士の姿であったり、旌旗の動き、動物の動きに現れる。特に動物の動きは人間が装うのが難しいため、動物の動きは推論を決定づける根拠となるかもと思う。兵士が杖をついていたり、旌旗がやたら揺れ動くようでは、敵に良からぬ事が起きているのは言うまでも無いだろう。

そして、より近くから見た時は、上官の言動に軍の士気が現れ、牛馬を処分しているかどうかに糧の状況が現れる。夜に大声を出せば敵にも聞こえるのに大声を出すという事は、気持ちを紛らわせているのだろう。つまり、怯えている兵が多そうだし、軍が騒がしいなら上官を軽視しているの可能性が高い。言わば、学級崩壊の状態だ。孫子は様々な例を通して、何気ない事が良くチェックされていて、何気ない事を見れば相手が透けてくる事を説いているのである。


  • 何気ない事から相手が透けて見える。
  • 何気ない事が良くチェックされている。


普段の生活でも、この教えはとても大切である。例えば、子供である。子供の躾では3つ事が大切と言われる。まず大きな声でハイと返事が出来る事、次に有難うと言える事、そして履物を揃えられる事である。理由は単純である。それが出来ると大人に可愛がられるからだ。可愛がられると子供に良い事が起きる。だから昔から子供可愛さに、こういった事を躾たわけだ。

考えてもみて欲しい。大きな声でハイと返事をする子供がいたら、厳しく育てられてると思わないか?小遣いを上げた時、ありがとうと言われれば悪い気がしないだろう。履物が揃えている子供を見たら、しっかりした家だと子供の姿から家を想像するものだ。逆はすべて、しょうがない子共だの一言となる。えらい差であろう。

勉強して良い学校に入る事が教育と錯覚する人が多いが、本当にそうだろうか?今一度、見直さねばならないだろう。例えば、日本の最高学府の東京大学をイメージして欲しい。挨拶もできない、有難うも言えない、靴もそろえない東大生がいたとする。恐らく東大でてるから調子に乗っていると言われるだろう。人情とはそういうものだ。だが、礼儀正しく、靴もきちっとそろえる東大生だったらどうだ?流石に東大生は違うと言われるのだ。人は頭の良さではなく、何気ない事でこそ評価するのである。何気ない事から相手が分かり、何気ない事こそがチェックされている。これが孫子の兵法である。