2025年1月30日木曜日

無門関 44則 覚書

 【芭蕉拄杖】


与言おうが 奪と言おうが ご勝手に






捨てなされ ああ捨てなされ 捨てなされ






1、経験値:1年~3年の場合

持っているという意識を捨てなされ。持っていないという意識を捨てなされ。与えると表現しようが、奪うと表現しようが、無心に誘う方便である。



2、経験値:4年~5年の場合

そのまんまで良いんだよ。この言葉は遺言にしても良いと思っている。



3、感想

無常、慈悲、無心と色々な切り口で解説を試みたが、結局そのまんまで良いの一言におさまった。どうも自分にできる事と言えば、祈ることくらいらしい。これからは祈ることを日課にしよう。



4、頌について

拄杖子 = 慈悲 × 無心 × 祈り

2025年1月26日日曜日

無門関 43則 覚書

 【首山竹箆】





1、経験値:1年~3年の場合

竹箆と呼んではいけない、呼ばなくてもいけないと言われると体にどういう反応がおきるだろうか。おそらく思考が停止するのではなかろうか。その思考が停止した感覚が示された教えの一端である。教えと言うと知識偏重になりやすいが、実は何も考えが浮かばない状態も立派な教えである。そこで強制的に思考を吹き飛ばす直接手を放つ。修行者はそのまま身を任せれば良いのである。

また、何かを真剣にやってるとき竹箆を意識することはないが、全く意識しないわけでもない。その感覚と解釈しても良いかも知れない。何事も手を抜かなければ、そこに無心のハタラキが現れる。それを感じれるかどうかが勝負所である。



2、経験値:4年~5年の場合

倦まず弛まず淡々と。



3、感想

怒りはいつ怒りになるのか。怒りと名をつけたときである。だから、名を与えるな。分からないままにしておけ。名に背くことを覚えよう。



4、頌について

背触交馳 = 私があなたのために。


2025年1月21日火曜日

無門関 42則 覚書

 【女子出定】







1、経験値:1年~3年の場合

網明菩薩を思考の例え、文殊菩薩を無心の例えと考えていた。網明菩薩が女子を起こすことができ、文殊菩薩にはそれができないのは当然である。この頃は出すことが出来ても出来なくても同じであるとは考えたが、失敗するほど面白いとまでは実感がなかったように思う。



2、経験値:4年~5年の場合

正解しなくて良かったんだ。



3、感想

先輩 「お前、和尚の処にいったらな、知らん、知らんと言えばよいぞ。」

後輩 「勘弁してくださいよ。そんな事したら叩かれます。」

先輩 「そうかも知れんな。」

後輩 「ちょっ、何でそんな事をするんですか?」

先輩 「俺にも分からん。」



4、頌について

失敗も立派なハタラキさ。

2025年1月18日土曜日

無門関 40則 覚書

 【趯倒浄瓶】





1、経験値:1年~3年の場合

潙山禅師は、無心の働きを見せたくらいに解釈していたように思う。



2、経験値:4年~5年の場合

世尊拠座。



3、感想

浄瓶は思考の象徴であるとすると、浄瓶を蹴とばすとは思考を蹴とばす事に他ならない。悩みは思考が生み出すとすると、浄瓶を蹴とばす事ができれば、悩みも蹴とばす事ができる。では、どうしたら蹴とばす事ができるかとなるが、あるときふと体得されるものとしか言いようがない気がする。だから、その時がくるまで倦まず弛まずである。公案とはそのための工夫かも知れない。個人的には、時間は無いと思うと途端に何で悩んでいたのか分からなくなる。苦しいときでも、これが人生の楽しみと思うと平然としていられる。



4、頌について

理屈 = 仮定 = 嘘




2025年1月16日木曜日

無門関 39則 覚書

 【雲門話堕】





1、経験値:1年~3年の場合

無心に気づけば、無心が言葉にできないことは自明である。言葉から類推しては野暮となる。他に求めず、己こそよるべとすべし。



2、経験値:4年~5年の場合

雲門の寄り付きがたいハタラキにゾクっとするようになった。また、答えがあると思っている処が僧が話堕した処であろうか?



3、感想

今こうしてあることの有難さに気づく。思いやりをもって生きていく。そう決まったなら、あとは語らず黙々と行うのが良い。言葉は相手を迷わせ、行動は言葉より雄弁である。



4、頌について

さもしき魚 = あらゆる種類の思考

2025年1月15日水曜日

無門関 38則 覚書

 【牛過窓櫺】





1、経験値:1年~3年の場合

無心を生きる上での目的地と設定すると、世界は平になる。これをやりたいとか、これはやりたくないとか、そういった事を考える事は少なくなり、ほぼ解放されると言って良い。何しろ何をしても体感が同じなのだ。比べてもしょうがない。この同じところを尻尾とするべきか、それとも、それでも心は無くなりはしないと言うところを尻尾と考えるべきか。ただ、これはあくまで説明の便宜上の議論であるから、実際にあっては尻尾にとらわれない事こそ肝要となる。何事も心を込めれば宜しいと言う事である。



2、経験値:4年~5年の場合

牛の尻尾は、私の自由な心境である。



3、感想

苦しみこそ人生の楽しみである。



4、頌について

牛の尻尾は、喜怒哀楽様々に姿を変える。全く奇怪千万であるが、させてあげるくらいの心掛けで良く治まる。


2025年1月12日日曜日

無門関 37則 覚書

 【庭前柏樹】


貴方は、貴方のままで素敵です。






1、経験値:1年~3年の場合

柏樹は一目無心である。無心に気づいてからは、不思議とそういう風に見える。



2、経験値:4年~5年の場合




3、感想

事なきを得たとはいえ、死を意識せざる得ない状態を経験した。その時何を思ったかと言うと、一言でいえば無常である。そのときは調子良い状態だった。調子が上がっているから、このままの流れを維持して行きたいと思ってた矢先、急に、本当に急にと言う感じである。俺は死ぬのかとなった。でも、不思議なものだ。特に何の感慨もなかった。死とは急に来るものだなと思っただけであった。振り返ってみて、何か後悔はあるかと言われると、全くない。やりたい事は無いのかと言われると、特にない。社会的な評価がついてこなかったからかも知れないが、特に心残りもないのだ。だが、幸せな人生であった。本当にそう思う。思い返すと、ここ20年は鬱々と暮らしてしまった。人間関係もうまくいかなくなってしまった。会う人に攻撃を受けることはあっても、その人間関係が親しい方向では発展しなかった。恨みの一つでも言いたくなりそうなところだが、恨みはない。無理もないと思うだけである。そういう縁はなかったのだろう。もし、今日が人生最後の日だとしたらどうするかと問われれば、寝ると答える。とは言え、家族は気がかりと言えば気がかりだから、感謝の文面くらいは残すか。死ぬにあたって何か言い残すことはあるかと言われれば、何もない。「貴方は貴方のままで良い」と書き記しても良いが、どうだろうか。野暮な気がする。死は大変な勉強になるものらしい。人生観が変わった。いつ死ぬか分からないことを目の当たりにして思うのは、もっと自由に、もっと自由にである。とは言え、今人生でやり残したことは次の人生でやればよいし、もし次の人生がなくてもそれはそれで良い。あればやるかも知れないし、無ければやら無いだけの話である。さて、そうは言ってもである。生きているわけである。思いやりでも育ててみようか。愛情でも注いでみようか。



4、頌について

人間は言葉を使っている気になっているが、言葉に使われているのかも知れない。